大江氏の中に進士になっていた者もいた事を念頭に置いておく。
太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があったこれが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある.
上記の箇所、上総広常の娘が嫁いだ『平時家』と絡めてもう一度考えてみる。
平時家の父が平時忠なのである。
時忠の従兄弟というならば、親宗の息か?
女性の従姉妹も入るならば時子、冷泉局、滋子、清子、藤原親隆室、帥局、坊門殿(平時信娘)
これらの誰かの息に『下野守師季』がおり、その孫が『永田太郎時信』という事になる。
網野善彦先生の著書には
永保三年(一○八三)、前下野守師季は、前年正月に官使を射殺した罪により、位記を奪われた。のちにこの荘の公文職と末武名の相伝次第に、「長田下野守平朝臣」と記される師季は、この人のことであろう。親信の孫、行義の子...
(と、このgoooglebooksの部分をヒントに「師季」に当たると、以下のように親信の系にいることがわかった。)が、↓
私にはこの師季や、行義の系で範国の弟の師季とは年代的に別人のような気がするのである。
上記の網野氏の本は部分のみなので、全貌がわからないのだが、他に師季がいたように思う。
1151年の当時百合文書が残っているので、本人(平師季)が存在していたことは確かである。
長田下野守平師季の系譜をひく丹生氏と同系であることが「系図」から明らかになる。丹生氏が太良保に本拠をおき、進士頼忠の祖父永田大郎時信が恐らくは恒枝保に名字の地をもっていたと思われるのに対し、頼忠自身は前述したように、大飯本郷と深い関係があった。(網野善彦著作集第14巻より)
進士頼忠の娘と景継本鄉公文藤原守綱女山田局祢宜景継・妻真阿 関係系図 注 1 作図の便宜上、兄弟姉妹の順を入れ替えている場合がある。注 2 四郎式部丞道阿は、四郎式部丞と子の道阿であるとも記されている。
(福井県史より)
このことから、大飯の本郷は、長田(永田)氏の裔である可能性があることがわかった。
美作氏=本郷氏=進士氏=長田氏… さらに長田氏はその後大江氏とつながり那波氏となる系が出る。
大江の親厳が随心院の大僧正であった事と近江八幡九里が隋心院領であった事と関係があるとすると、本郷城ともよばれていた九里城、しかもそこには長田という地名もある。
本郷氏は長田氏であり、大江氏につながる事にもなるのではないだろうか。
そこで、一番初めに貼った進士大江氏(大江泰基)が関係するように思ったのだ。
以前大飯の郷土の方々が、美作氏の先祖は桓武平氏という可能性を示唆なさっていらしたが、私もそのように思っている。こことつながってくるのだ。しかも大江氏と絡んで!
系図には平井氏の名は出ていないが、和田が他の本によると「和田平井実家」となっていた。
(和田平井実家に嫁いでいる者もいる。)