片岡常春の所領であった「三崎荘」と、おなじく下総国海上郡にあった東荘(橘庄)を調べているうちに、東胤頼と富木常忍の祖父にあたる千葉成胤がともに1155年生まれであることがわかった。叔父と甥の関係であるが同じ年である。
つまり、胤頼の娘も、成胤の娘も同世代であり、共に土岐氏に嫁いだ可能性もあったという事になる。
*****自分の間違いが、また見つかってしまった*****
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此処に書きとどめておこうと思う。
海上荘が三崎荘で、
東荘がもと橘荘であり、
私は勘違いしていたようである。スミマセン。
つまり中原経任の橘次の【橘】は東荘のもう一つの名であった【橘荘】からであったかもしれないことになる。千葉氏も橘氏を称し…と読んだことがある。
ヤレヤレ😥
東胤頼は上西門院に仕えていた時代があった。
統子内親王のことで後白河天皇の同母姉である。
コトバンクには「源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹を妻とし,頼朝自身も上西門院に仕えてその蔵人となり,右兵衛権佐となるなど,義朝・頼朝父子の立身にはこの女院の存在が大きかった。」とある。
東荘を調べてみる。三崎荘の隣…
須賀山城
桜井城
さて、三崎荘が後に九条家の家司であった藤原定家が所職を得ているのだそうだ。(1199年)
しかし遠隔の地であり経営困難という事で返却(1202年)され、千葉氏(東氏)の所領となったという経緯があったようである。
因みに東胤頼の和歌の師匠が定家である。
「玉寄する三崎」考 鴨長明集 左注歌をめぐって 兼築信行 著 より
この三崎荘は海上荘ともよばれる。
とすると、wikipediaによると上記の定家の返却時期が違うが、以下のように書かれている。
治承4年(1180年)5月11日の皇嘉門院惣処分状に九条家領と見え、皇嘉門院から猶子九条兼実の長男良通に伝領されている。
文治2年(1186年)の関東知行国乃貢未済荘々注文(『吾妻鏡』文治2年3月12日条)には殿下御領(近衛家領)と見えるが、
建長2年(1250年)11月の九条道家惣処分状、建長8年(1256年)8月25日付九条家重書目録などに当荘が見え、元久元年(1204年)4月23日付宜穐門院宛の九条兼実置文には藤原忠通の時に最勝金剛院に寄付された院領の1つと見える。また、この間の正治元年(1199年)には、藤原定家が預所職とみられる下級所職を与えられ、正治2年(1200年)に当所職を辞退・返還したことが明月記に見える。
在地領主は平安時代末期には片岡氏であったが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月28日条によれば、片岡常春は舅の佐竹義政に同心して源頼朝に謀反を企てたかどで当荘を収公され、代わって千葉常胤に与えられ、その後は千葉氏一族が領有した。建保6年(1218年)11月、東胤頼の孫胤行は当荘に下向したまま鎌倉に帰参せず、源実朝は和歌を詠じて参上を催促したという(『吾妻鏡』建保6年11月27日条)。その後当荘を領したのは胤行の弟胤方の系統で海上氏を称した。
この辺りが、どうも中原富木蓮忍(九里太郎)・富木常忍を考えるに関係がありそう、と思う。
web上には、以下のようにもあった。
文治元(1185)年10月、常胤から海上郡三崎庄五十五郷が譲られて、椿海(旭市)に面した桜井(旭市桜井)に館を構えたと伝えられている(『千葉大系図』)。 下総国東庄を与えられて東六郎大夫を称す。
(略)胤頼には東荘33郷(今の東庄町とその近隣)が与えられ東氏を名乗りました…ともある。
つまり、東胤頼は、海上郡の三崎荘と東荘ともに譲られていたのだ。
八十八ごうもあったのなら、何処か中原経任が任されていた郷があった可能性もあるか?とも思う。