鎌倉中期・後期へ行くはずだったが、ココで坊門姫の裔に関して。
下記の系図によると九条良経に嫁いだ娘の孫に藤原頼経がいる。
系図内の親能は中原氏ではなく、藤原親能であり、娘は「大宮殿」と呼ばれていた女性である。
頼経は、ほぼ富木常忍と同時代を生きた将軍である。
wikipediaによると、
寛元4年(1246年)7月、宮騒動により父頼経が京へ追放され、翌宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で将軍家を擁する三浦氏らが滅亡した後も、頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。しかし建長3年(1251年)、了行法師らの謀叛事件に頼経が関係したとして、幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍とすることに決定。翌年、頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放された。同年、祖父の九条道家も関与を疑われ間もなく死去した。
4年後の康元元年(1256年)8月に父頼経が死去し、続いて頼嗣も9月25日、赤斑瘡により死去。享年18。
という、可哀想な結末となっている。
第五代将軍頼嗣のあとには、後嵯峨天皇の三男の宗尊親王となる。
宗尊親王ー惟康親王…と以外に室町幕府は遠い。。。こんなに宮将軍が何代も続いていたとは。
1333年迄結構長い。
まずはこの辺りを勉強していこうと思います!!
今まで調べていたのは、鎌倉時代のほんの始りだったことがわかりました。
長いぞ、鎌倉~~♫