鎌倉時代の中原から中原氏・冨城氏・九里氏と三つの流になったのかもしれない。
其の3つの流れの基である【中原久経】自身は 藤原秀郷流・中原姓であり、源義朝の元妻が母親であったために源氏ともかなり近い。
久経の息と思われる中原政経は、一条能保の家司的存在であった。
一条能保は、妻が義朝の娘の坊門姫であったために、鎌倉幕府には近かった。
義朝の元妻の息久経、義朝の娘坊門姫のつながりがあって一条家の家司となったのかもしれない【中原政経】
そして、三左衛門事件の後、人生の最後ともいえる時期に先祖伝来の近江国【伊香郡】の案主となることができるよう、鎌倉幕府からの申し出が「葉室定嗣」を通して後嵯峨天皇になされている。(関東家人政恒法師、となっているが、私は中原政経のことと思う。)
葉室定嗣は当時38歳。
父であった葉室光親は、承久の乱後に殺されるがwikipediaによると「北条泰時は光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだ」とある。息の定嗣は、後嵯峨上皇のそばに仕えていたそうである。
坊門姫を育てたのは後藤実基で、京で秘かに育てられたとある。
その後藤実基もまた藤原秀郷流である。
更に坊門姫と一条能保の娘は 九條良経正室、西園寺公経室、花山院忠経室(後鳥羽天皇乳母)となったそうである。
その花山院忠経の室には、葉室宗行の娘もおり、その娘には業資王と資宗王に嫁いでいる姉妹がいた。
その業資王と資宗王の家は「白川伯王家」であり、母親は卜部基仲の娘である。
西園寺公経に嫁いだ坊門姫の娘。公経の父実宗の弟が藤原実明で閑院流である。
このつながりの輪の中に、中原経久がいたのではないだろうか?
その為に丹波国(丹後国とも)の河守御荘の地頭となることができたのではないだろうか?(蓮忍入道)
しかも、蓮乗が中興の祖といわれている室尾谷観音寺に寄進している。
其の蓮乗とは、実明の息であり、卜部基仲の孫ともいわれているようなのだ。醍醐寺の文書では基仲帥となってはいたが…
卜部のことなのではないか?と思っている。
何も証拠は見つからなかったが、周辺の事情の解明は少し進展し、政経が政恒法師であった可能性、其の政恒法師が江州中原氏であった可能性が出てきた事、一条能保の室となった坊門姫周辺とも関連している中原経久であったことがわかってきた。
本日からは、少し鎌倉後期から室町時代に進んでいければ…と思う。
ほんの小さな穂先から花が咲いた!! 菜の花大好き!!