グローバリストの最終目的が‘もの’、‘サービス’、‘マネー’、‘人’、‘知的財産’、‘情報’の世界大かつ全面的な自由移動であるとすれば、その行く末は、グローバリストが最適と見なした形での国際分業の成立とその固定化であることは、容易に予測されます。そして、自由移動こそが、政治分野における征服や異民族支配に伴う一側面であったことを思い起こしますと、グローバリズムとは、経済理論でも、思想や宗教でもなく、その本質において‘世界戦略’であった可能性が高まってくるのです。
経済学にあって、グローバリズムが全人類にもたらす効用や恩恵を論理的に説明する理論が登場せず、行き詰まってしまった理由も、それが不可能な命題であったからなのでしょう。国境の消滅とそれに伴う全ての生産要素の自由移動の帰結が、全ての諸国の経済成長であり、全ての人々の生活レベルの向上であると断言することには、誰もが躊躇するはずです。逸早く市場統合を試みたEUでも、当初に予測されていた高い経済効果が全ての加盟国にもたらされた訳ではありませんでした。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといったかつての‘西側先進国’は、低成長と経済停滞に悩まされていますし(マイナス成長を記録した年もある)、加盟当初は投資に沸いた中東欧諸国でも、今ではマイナス成長が目立ってきています。その一方で、企業レベルでは、インフラ分野を含めて規模に優るドイツ企業の‘一人勝ち’が指摘されており、欧州市場やユーロ誕生の際の浮かれたような熱気は今では嘘のようなのです。現実が証明しているのですから、グローバリズムにつきましても、経済的な繁栄を描く理論や理論を提起しても、自ずと説得力が乏しくなるのです。
かくしてグローバリズムの理論武装の路線は半ば放棄された状況に至ったのですが、それに代わって頻繁に用いられるようになったのが、プロパガンダやイデオロギー化で合ったように思えます。理屈では説明を付けられない、あるいは、論理的帰結を誤魔化したい場合、イメージ操作や洗脳という手段がしばしば使われるものです。グローバリズムも、人類の理想郷としての根拠のないイメージが拡散されるようになるのです。例えば、今日、マスメディアや経済空間では、DX、GX、再生エネ、AI、メタバースといった近未来テクノロジーの言葉が飛び交い、日本国政府もファンタジーのようなムーショット計画を打ち上げています。グローバリストの本山とも言える世界経済フォーラムが描く未来像もこの一種であり、臆面もなく‘グレート・リセット’の名の下で‘グローバル・ガバナンス’のヴィジョンが公開されているのです。グローバリズムはあたかも新興宗教のようでもあり、多くの人々が洗脳されているかのようです。
しかしながら、グローバリズムとは、元よりグローバリストの世界戦略であったとすれば、以上に述べてきた奇妙な現象も説明が付きます。‘グローバリズムは金融財閥でもあり、膨大な利権とマネー・パワーを握る極少数の私人達による世界戦略である’とする仮定の下で経済現象を分析すれば、経済学にあってもより合理的に現実を説明できたことでしょう。陰謀論として同仮定をはじめから排除しているからこそ、出口のない迷路にはまってしまっているようにも見えるのです。
それでは、人類は、グローバリズムの罠から逃れることが出来るのでしょうか。少なくとも今日の日本国の政治家やマスメディアを見ておりますと、あたかもグローバリストの‘僕’のようです。その一方で、グローバリズムの行く先が、中間層の消滅を経て貧富の格差の拡大し、最終局面では経済面における‘世界分業体制’であるとしますと、AIの普及促進も、中間層の消滅という意味において最終段階に差し掛かってきている証であるのかもしれません。しかしながら、現時点にあっては、既に引き返しのできない段階に達しているとも思えません。グローバリズムは‘世界戦略’である、とする認識が人々の間に広がれば、やがて洗脳も解けてゆくことでしょう。