強制力と言えば、一般的には、政府といった公的機関が行使する公権力が思い浮かぶことでしょう。当人の意思、あるいは、合意や承認の有無に拘わらず、強制力というものが及びますと、その対象となった人は、他者の意思や一方的に発せられた指令に従わざるを得なくなります。このため、支配欲や権力欲に駆られた人が、利己的な目的を達成するために強制力を得ようとする一方で、人々は、強制力というものを恐れ、その制御方法について知恵を巡らしてきたのです。
もちろん、強制力は、国家を護ったり、公益を実現したり、あるいは、人々の権利や自由を擁護するために必要不可欠です。今日の民主主義国家は、強制力が人々のために使われるよう、その行使条件という意味において統治の目的を明確化すると共に、公的機関の権限の範囲を定めて、法を以って強制力を制御してきたとも言えます。人類における民主的統治制度の発展史は、強制力を‘共通善’に資する範囲に押し込めてきたプロセスとしても理解することもできましょう(この点、独裁体制には、強制力の暴走を止めるための制御システムが欠如している…)。
以上に、本記事の本題とは関係のないようなお話を書き連ねてきたのですが、実のところ、強制力を制御してきた人類の努力を’水の泡’にしてしまいかねないものがこの世には存在しています。それは何かと申しますと、テクノロジーです。テクノロジーは、いとも簡単に人々が作り上げてきた政治の分野における強制力制御システムを乗り越えてしまう力を秘めているからです。言い換えますと、テクノロジーは、その使い方次第では、公権力と同様に人々から自由意思を奪い、ある一定の方向に向かうように人々を強要しかねないのです。
例えば、本日、中国とアメリカの研究チームが、ヒトとサルとの細胞が混在する「キメラ細胞」の培養に成功したとするニュースが報じられています。中国・昆明理工大と米ソーク研究所の名が挙がっていますが、米中対立の最中にあって、倫理的問題が生じる分野での‘共同研究’が継続されているとしますと、空恐ろしさも感じさせます(オバマ政権時代にあって武漢のウイルス研究所にアメリカが資金提供したとも…)。この研究の果てに‘半人半獣’の生物が誕生し、その数を増やしていくとなりますと、その自己中心性と獰猛性において獣の如く、その狡猾さにおいて人の如き生物は、人類にとりまして重大な脅威となりましょう(かつてソ連邦は、秘密裡に人間とサルを交配させた生物を製造し、米国アラスカ州に送り込むことを計画したところ、その結果誕生した新生物のあまりの気味の悪さに、プロジェクトに参加した研究者たちが耐え切れなくなり、計画を断念したとも…)。
このキメラ生物に対して、人類の側が民主主義を熱心に説いても理解しようとはしないでしょうし、自らに馴染まない人類の文明は暴力で破壊してしまうかもしれません。テクノロジーが人類が制御不能となる脅威を生み出してしまった場合、全ての人類は、‘自滅’という運命に従わざるを得なくなります。言い換えますと、その発案者、あるいは、開発者は、全人類に自らの行為の結果を強制したこととなりましょう。
こうした未来技術に関する極端な例を持ち出さなくとも、テクノロジーによる強制力は、日々、実感されます。例えば、IT急速な発展により、人々は、経済活動や社会生活のみならず、日常生活においてもデジタル機器を使用せざるを得ない場面は少なくありません。AIが広く普及すれば、AIに職を奪われた人々は、’失業’を強制されてしまうかもしれないのです。そして、コロナ・ワクチンに関しても、それが製品として開発され、デジタル技術と融合したが故に、人々は、政府による強制接種、並びに、国民監視強化の危機に直面しているとも言えましょう。
テクノロジーは、人類を病魔や労苦から救い出し、便利で快適な生活をもたらしてきたものの、それが内包する強制力は潜在的、否、今や顕在的な脅威となりつつあります。無制限な研究や開発を認めますと、人類を滅亡に向けて強制しかねないのです。このように考えますと、テクノロジーについても、統治権力と同様に制御システムを構築する必要があるように思えます。キメラ細胞については、神の領域を侵犯したとの批判がありますが、今日、人類は、自らの知性を以って倫理的な判断を行わざるを得ません。そうであるからこそ、テクノロジーの開発については透明性を高める必要がありましょうし(秘密裡の開発の防止…)、多くの人々が参加できる形での議論の場を設け、効果的な制御方法こそ’開発’すべきではないかと思うのです。