差別とは、国語辞典を引くと「程度に差をつけて、あつかいを分けること」とあります。物品であれば、とりたてて反道徳・倫理的な行為とはならないのですが、人が対象となりますと、してはならない‘禁止行為’という意味合いを持つようになります。何故ならば、所属する集団や個人的な属性を‘あつかいを分ける’基準とした場合、基準に当てはまらない人々を排除することを意味するからです。国連では、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」と説明されているそうです。
同説明からも理解されるように、除外や拒否を伴うからこそ、差別は禁止行為とされていることは明らかです。差別を別の言葉で表現するとすれば、それは、属性だけで判断されるのですから、不公平あるいは不平等と言うことになりましょう。とりわけ人種、民族、宗教、文化、言語、性別等を基準とした差別は、不当な社会的な排除行為とされ、厳しい視線が向けられることとなったのです。実際に、アメリカ合衆国を初めとした多民族国家では、差別の解消やその撲滅は社会政策の一環として積極的に推進され、言論空間でも、炎上を呼びやすい極めてセンシティブな領域となりました。そして、1980年代以降、グローバル化が全世界に及ぶにつれ、差別問題は全世界の諸国にも波及してゆくのです。
差別問題のグローバル化は、人種や民族等を選別基準とした差別をしてはならない、とする新たなグローバル・ルールの導入を意味しました。ところが、差別とは、選別基準が存在してこそ起こりえる現象ですので、この基準に従えば、人種や民族等の個人の属性そのものを基準としてはならないということになります。となりますと、今日の国民国家体系は、一民族一国家の基本原則において成立していますので、特定の民族がマジョリティとなる一般的な国家では、グローバル・ルールとの間に解消しがたい齟齬が生じることになるのです。
2020年に開催された東京オリンピックにあって、伝統的な日本らしさが極力押さえられ、目下、中止論も浮上して先行き不透明となった大阪万博にあっても、未来ヴィジョンやそれを支える先端技術のみがアピールされるのも、グローバル・ルールを意識した結果であったことは疑いようもありません。先日、‘日本人とは誰なのか’という問題を引き起こしたミス日本問題も、まさにこの問題を象徴しているとも言えましょう。○○国代表や○△国優勝者といったタイトルは、そもそも同ルールに違反するのですから(民族あれ、国籍であれ、話語であれ、何れを基準としても参加資格は差別とならざるを得ない・・・)。
それでも、長年の慣例を変えるわけにもいかず、この種のドメスティックな大会を継続させようとしますと、どのような事が起きるのでしょうか。先述したように、人種や民族等を基準とすることは、グローバル・ルールとして禁止されています。そこで、参加資格には目を瞑りつつ、コンテストの審査基準の方をグロール・ルールの合わせることで対処しようとするかもしれません。例えば、ミス○○では、○○国の固有の伝統的な美意識を審査基準としたのでは差別として批判されますので、この部分は、グローバル・スタンダードに変更するのです。この結果、コンテストの優勝者は、国家を枠組みとした大会であったとしても、選ばれる人は、グローバル・スタンダードにもっと合致した出場者となり、○○国を構成してきた民族の出場者は、悉く落選となるのです。
確かに、この方法ですと、一見、人種差別や民族差別はないように見えます。しかしながら、よく考えてみますと、グローバル・スタンダードも、れっきとした差別とする見方も成り立ちます。おそらく、グローバル・スタンダードとは、‘特定の民族的属性を持たない人’ということになりますので、様々な人種や民族の血を引く人が選ばれることになります。近年のミス・ユニバースの優勝者の多くがラテン・アメリカ諸国の出身者であるのは、これらの諸国では、その歴史から、モンゴロイド系、コーカサイド系、並びに、アフリカ系の人種が混血しているからなのかもしれません。あるいは、‘グローバル’という観点からしますと、本当のところはユダヤ人の伝統的な美意識が基準であって、全世界に拡散したユダヤ人と混血した現地の人々の子孫達が選ばれているとも推測されましょう。そして、この現象は、美を競うコンテストのみならず、全世界のあらゆる場面で起きているように思えます(工業製品でも、一端、グローバルスタンダードが確立すると、国内規格は排除されてしまう・・・)。
何れにしましても、グローバル・スタンダードにも、強力な排除作用が認められますので、差別的ではないとは言えなくなります。‘特定の民族的属性を持たない人’も、紛れもなく属性に関する基準の一つであり、‘特定の民族的属性を持つ人々’を排除するからです。つまり、差別をなくすという口実のもとで、新たな差別基準が採用されていることになりましょう。グローバル・スタンダードの差別性に気がつきませんと、いつの間にか、人類の多様性も豊かで多彩な伝統文化も消しさられ、やがて画一化されてしまうのではないかと危惧するのです。
同説明からも理解されるように、除外や拒否を伴うからこそ、差別は禁止行為とされていることは明らかです。差別を別の言葉で表現するとすれば、それは、属性だけで判断されるのですから、不公平あるいは不平等と言うことになりましょう。とりわけ人種、民族、宗教、文化、言語、性別等を基準とした差別は、不当な社会的な排除行為とされ、厳しい視線が向けられることとなったのです。実際に、アメリカ合衆国を初めとした多民族国家では、差別の解消やその撲滅は社会政策の一環として積極的に推進され、言論空間でも、炎上を呼びやすい極めてセンシティブな領域となりました。そして、1980年代以降、グローバル化が全世界に及ぶにつれ、差別問題は全世界の諸国にも波及してゆくのです。
差別問題のグローバル化は、人種や民族等を選別基準とした差別をしてはならない、とする新たなグローバル・ルールの導入を意味しました。ところが、差別とは、選別基準が存在してこそ起こりえる現象ですので、この基準に従えば、人種や民族等の個人の属性そのものを基準としてはならないということになります。となりますと、今日の国民国家体系は、一民族一国家の基本原則において成立していますので、特定の民族がマジョリティとなる一般的な国家では、グローバル・ルールとの間に解消しがたい齟齬が生じることになるのです。
2020年に開催された東京オリンピックにあって、伝統的な日本らしさが極力押さえられ、目下、中止論も浮上して先行き不透明となった大阪万博にあっても、未来ヴィジョンやそれを支える先端技術のみがアピールされるのも、グローバル・ルールを意識した結果であったことは疑いようもありません。先日、‘日本人とは誰なのか’という問題を引き起こしたミス日本問題も、まさにこの問題を象徴しているとも言えましょう。○○国代表や○△国優勝者といったタイトルは、そもそも同ルールに違反するのですから(民族あれ、国籍であれ、話語であれ、何れを基準としても参加資格は差別とならざるを得ない・・・)。
それでも、長年の慣例を変えるわけにもいかず、この種のドメスティックな大会を継続させようとしますと、どのような事が起きるのでしょうか。先述したように、人種や民族等を基準とすることは、グローバル・ルールとして禁止されています。そこで、参加資格には目を瞑りつつ、コンテストの審査基準の方をグロール・ルールの合わせることで対処しようとするかもしれません。例えば、ミス○○では、○○国の固有の伝統的な美意識を審査基準としたのでは差別として批判されますので、この部分は、グローバル・スタンダードに変更するのです。この結果、コンテストの優勝者は、国家を枠組みとした大会であったとしても、選ばれる人は、グローバル・スタンダードにもっと合致した出場者となり、○○国を構成してきた民族の出場者は、悉く落選となるのです。
確かに、この方法ですと、一見、人種差別や民族差別はないように見えます。しかしながら、よく考えてみますと、グローバル・スタンダードも、れっきとした差別とする見方も成り立ちます。おそらく、グローバル・スタンダードとは、‘特定の民族的属性を持たない人’ということになりますので、様々な人種や民族の血を引く人が選ばれることになります。近年のミス・ユニバースの優勝者の多くがラテン・アメリカ諸国の出身者であるのは、これらの諸国では、その歴史から、モンゴロイド系、コーカサイド系、並びに、アフリカ系の人種が混血しているからなのかもしれません。あるいは、‘グローバル’という観点からしますと、本当のところはユダヤ人の伝統的な美意識が基準であって、全世界に拡散したユダヤ人と混血した現地の人々の子孫達が選ばれているとも推測されましょう。そして、この現象は、美を競うコンテストのみならず、全世界のあらゆる場面で起きているように思えます(工業製品でも、一端、グローバルスタンダードが確立すると、国内規格は排除されてしまう・・・)。
何れにしましても、グローバル・スタンダードにも、強力な排除作用が認められますので、差別的ではないとは言えなくなります。‘特定の民族的属性を持たない人’も、紛れもなく属性に関する基準の一つであり、‘特定の民族的属性を持つ人々’を排除するからです。つまり、差別をなくすという口実のもとで、新たな差別基準が採用されていることになりましょう。グローバル・スタンダードの差別性に気がつきませんと、いつの間にか、人類の多様性も豊かで多彩な伝統文化も消しさられ、やがて画一化されてしまうのではないかと危惧するのです。