フリードリヒ・ニーチェが残した「神は死んだ」という言葉は、過激ではあれ、近代という時代の精神を端的に表しているのかも知れません。共産主義者が祖と崇めるカール・マルクスも、ユダヤ教のラビの家系に生まれたとされながら、宗教に対しては冷ややかな評価を下しています。20世紀に至ると、公然と宗教を弾圧するソ連邦や中国のような共産主義国家も現れる一方で、自由主義諸国にあっても、キリスト教といった伝統宗教に対する信仰心は薄らいできています。あたかも、ニーチェの‘予言’が的中したかのようなのですが、その一方で、数多の新興宗教団体が誕生し、今では政治にまでその影響が浸透するという、奇妙な現象が起きています。それでは、無宗教の人が増える中、新興宗教団体は、神を信じる人々が未だ多く存在していることの証なのでしょうか。
何れの新興宗教団体も、キリスト教や仏教といった伝統宗教を本体としており、更地から新しく生まれたものは殆どありません。例えば、旧統一教会はキリスト教のプロテスタント(あるいは、‘隠れユダヤ教徒’かもしれない・・・)、創価学会は仏教の日蓮宗から派生しています。何れも世界宗教とされる宗教であり、その教えの基本には、全ての人類を等しく愛し、救おうとする超越した存在としての神や仏の捉え方があります。この超越的で博愛的な側面だけを見れば、共産主義等の唯物論によって否定された神は、未だに健在のように見えます。
しかしながら、新教宗教団体は、‘敵’であるはずの共産党と類似した団体とする見方もできないわけではありません。何故ならば、新興宗教団体は、巧妙な仕組みによって‘別もの’に変えられている疑いがあるからです。この‘別もの’とは、世俗主義、かつ、権力志向の利益団体です。それでは、どのような魔法をかければ、新教宗教団体は共産党の如き姿に変身するのでしょうか。
そもそもキリスト教であれ、仏教であれ、新興宗教団体のベースとなる宗教にあって神や仏を信じる理由や目的は、権力でも、現世での富や享楽を得るためでもなく、心の安らぎを得るためです。天界に通じるような清らな心を持つことが、信者にとりましては大事なことであるはずなのです。ここに、超越的な存在である神や仏と繋がろうとする人間の信仰心が認められるのですが、新興宗教団体では、どうやら神あるいは天界との繋がりが断たれてしまっているように見えるのです。
これまでも、博愛主義を説いた宗教にあって、その教義や教えの解釈の違いから多くの宗派に分かれ、果ては泥沼の宗派対立が起きるというのは、普遍宗教の大いなる矛盾であると指摘されてきました(一神教では宗教間の対立・・・)。共に同一の神や仏を信じながら、何故、信者達は、平和の望みに反して相争うのか、と・・・。新興宗教団体もまた、宗派の一つとも考えられますので、同様の矛盾を孕んでいます。そして、この矛盾に輪をかけているのが、教団の‘教祖’の存在です。何故ならば、教祖の権威は、イエス・キリストや仏陀、あるいは、『聖書』や仏典をもしのぎ、神さえをも越えてしまうからです。人々は、自らの行動を決めるに際して、超越した善なる存在、あるいは、内面の良心に照らすのではなく、教祖や組織の指示に従ってしまうのです。
教祖の存在が絶対化されますと、神の絶対性と威光を纏った、もしくは、自らカリスマを放つ教祖の存在によって、教団のメンバーと神との精神的な繋がりは遮断されています。教祖は、あくまでも神ではなく世俗に生きる‘人’の一人に過ぎませんので、宗教団体は、いとも簡単に世俗の団体に転換されてしまうのです。しかも、同教祖が、政治的権力を求め、それを利用した現世御利益をもって信者を集めるとすれば、同団体は、政治的利権と利益を求めて集まる利益集団にすぎなくなります。その姿は、自ずと共産党と重なってきてしまうのです。
ヨーロッパにあって17世紀に起きた宗教改革は、当時にあって腐敗した教会を断罪し、同組織を介さずして神との直接的な繋がりを求める運動でもありました。より理性を尊ぶようになった現代という時代にあって、かくも神や仏から離れた新興宗教団体の現状を憂い、何故、信者の間から宗教改革運動が起きないのか、不思議でならないのです(もっとも、脱会すればよいので、内部から改革する必要性は感じていないのかもしれない・・・)。(つづく)