万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

安部元首相の国葬を法律問題として考えてみる

2022年08月10日 10時51分09秒 | 日本政治
 安部元首相暗殺事件は、岸田文雄首相が国葬を即決したことから、思わぬ方向に波紋を広げることとなりました。国葬に対する各社の世論調査の結果は、メディアが世論誘導・同調圧力装置となっている今日にあってはまちまちなのですが、それでも元統一教会との関係が明らかになるにつれ、国葬に対する反対意見は増加傾向にあるようです。おそらく、声高には反対を叫ばないまでも、大多数の国民が訝しく感じているのでしょう。どこか納得がいかないと・・・。

 国葬に関する法令は戦後に廃止されたこともあり、国葬という儀式については法的根拠がない状態にあります。このため、市民団体の動きも活発化してきており、先月の7月21日には、国葬の差し止めを求める仮処分が申し立てられたのに続き、今月の8月9日には、これとは別の団体が提訴に踏み切っています。今後は、安部元首相の国葬に関する違憲性並びに違法性、あるいは、不法性が裁判所で争われることとなりましょう。‘市民団体’とは、退陣後も‘安部政治’を糾弾してきた左翼系の団体と推測され、イデオロギー的な偏向もあるのでしょうが、それでも、国葬の法的根拠の問題は、日本国の法秩序の問題でもありますので、国民の多くも懸念するところです。

それでは、現行の日本国憲法には、元首相の国葬に法的根拠を与える条文が存在しているのでしょうか。実のところ、憲法を端から端まで読みましても、国葬に関する記述を見いだすことはできません。今般の国葬は、7月22日の岸田内閣の閣議決定によって正式に決定されたものの、憲法第73条に定める内閣の職務には、国葬を含む儀式に関する事項が含まれていないのです。

その一方で、憲法において‘儀式’という文字が記されている条文は、天皇の国事行為を定めた第7条10項のみです。それでは、天皇であれば、‘儀式’の一つとして国葬を決定することができるのでしょうか。この点、同項には「儀式を行うこと」と表現されており、儀式の具体的な内容を‘決めること’とは記されてはいません。憲法上、天皇には政治に関する権能はありませんので、同条文も、形式的な主催者を意味するに過ぎないのでしょう。因みに、安部元首相の国葬が行われる場合、その主催者は、天皇なのか、政府なのか、という別の問題も生じるかもしれません。

 次に、法律はどうでしょうか。内閣法の第1条にも「内閣は、国民主権の理念にのつとり、日本国憲法第七十三条その他日本国憲法に定める職務を行う」とあります。むしろ、法律は、内閣の職務を憲法の枠内に限定しており、これを越えた権限を行使することはできないと解釈されるのです。なお、内閣設置法第3条33項には、「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」とありますが、この法文は、あくまでも内閣を補佐する役割を担う内閣府の所掌事務について定めたものであり、内閣そのものに関するものではありません(6時30分に加筆しました)。 法律において国家による葬儀を定めているのは、天皇崩御に際して執り行われる大喪の礼のみです。皇室典範第25条には、「天皇が報じたときは、大喪の礼を行う。」とあります。言い換えますと、大喪の礼以外の国葬は、法文において具体的な根拠や内容を明記した法律がないのです。

以上の諸点に鑑みて、‘市民団体’は、法律問題として国葬の差し止めを求めているのですが、第一に問題とされるのは、国葬決定の法的手続きです。同団体は、閣議決定を以て国葬を決定した岸田内閣の行為は憲法に定めた権限を越える越権であり、仮に、安部元首相の葬儀を国葬として行うならば、民主的選挙で選ばれた国会議員が国会において審議を尽くし、国葬に関する法律を成立させた上で執り行うべきと主張しているのです(憲法上、国会が国権の最高機関・・・)。民主的統治制度における手続き上の違憲・違法性を問題とした反対論と言えましょう。

 こうした民主的手続き上の批判の他に、市民団体が訴えている第二の問題点は、国葬が、憲法第19条が保障する思想及び良心の自由を侵害する行為に当たるというものです。全ての国民が安部元首相に対して好意的ではないにも拘わらず、国民に対して弔意の表明が強制されるとなれば、自己の内面を歪めざるを得なくなります。地方自治体の中には、半旗の掲揚を求める教育委員会もあるそうですが、国葬の日となる9月27日、校庭に生徒が集められ、全員が頭をたれて黙祷を捧げる光景が全国的に広がれば、どこか全体主義の足音も聞こえてきそうでもあります。もっとも、この批判点は、法律上の根拠がある大喪の礼にも共通することにもなりますので、別に論じる必要がありましょう。

以上の市民団体の背景が何であれ、その主張については、真剣に考えるべき理があるように思えます。仮に、憲法や法律において明文の規定が欠けている場合、内閣がフリーハンドで如何なる事柄でも決定できるとなりますと、悪しき反対解釈となりかねないからです(違憲訴訟が起こされなかった吉田首相の国葬を前例として踏襲する必要はないのでは・・・)。ここは感情を排して法律問題に徹し、裁判所のみならず、国民も慎重に判断するべきと言えましょう。そして、国葬に関する問題は、現行の憲法や法律における合憲性並びに合法性に先立つ問題として、国葬とは何か、あるいは、国家と政治家個人との関係をどのように考えるべきか、という問題を問うているように思えるのです(続く)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペロシ下院議長がすべきは台湾核提供法案の採択では-何よりも強力な抑止力

2022年08月09日 10時45分44秒 | 国際政治
今年の8月6日、日本国は、人類史上初めて大量破壊兵器として広島に原爆が投下されてから77年目の日を迎えることとなりました。過去の原爆投下への反省、並びに、ウクライナ危機で高まるロシアによる核の先制使用への懸念から、この日に広島で開催された「平和記念式典」に参列した国連のグテレス事務総長も、8日に設けられた日本記者クラブの記者会見の席で、核保有国に対し「核の先制使用は絶対しないということを約束し、核の脅しをしないよう求める」と述べています。

この日に先立ってニューヨークで開催されたNPT再検討会議でも、日本国の岸田文雄首相は、核の不使用を「ヒロシマ・アクション・プラン」の第一プランとして位置づけています(因みに、創価学会の名誉会長も核の先制不使用の誓約を核保有国に求める緊急提言を行っており、新興宗教団体と超国家権力との関係を示唆している・・・)。何れの提案も、核の先制不使用を核保有国の自己規律に求めているのですが、自己拘束の脆弱性については、誰もが経験から知るところです。特に、自己や身内の生命、身体、財産に拘わるような重大な危機に直面した場合には、日頃の言葉は当てにならない場合は少なくありません。しかも、詐欺師のように最初から相手を騙すつもりで、‘自分は絶対に○○しません’といったような心にもない口約束をするケースもあるのです。中国に至っては国際法さえ平然と破るのですから、自らの行動を縛るような口約束や誓約などは、わずかな水面の揺らぎでも一瞬にして消えてしまう泡のごときなのです。

となりますと、核の先制不使用をより確実にするためには、自律ではなく‘他律’を要するのは言うまでもありません。核兵器の先制使用のリスクを実質的に低減させるには、外部から抑止するしかないのです。この厳粛なる事実に鑑みますと、核兵器の抑止力の活用は理に叶っています(ミサイル防衛システムや他の核兵器無力化テクノロジーは未だ開発段階・・・)。核兵器は、最大の破壊力を有する故に、最大の抑止力をも備えているからです。破壊力と抑止力とは表裏一体であり、前者に対する後者の効果をより高めるためには、むしろ、抑止目的における核保有を増やす必要さえあるのです。

NPT第10条は、NPT体制が‘平時の体制’であることを示していますので、有事、あるいは、有事となるリスクが高い場合には、自ずと同体制は消滅せざるを得ません。核保有国と非核保有国との間で戦争に至った場合、非核保有国は、アンフェアな状況下にあって‘絶対に勝てない戦争’を戦わざるを得なくなるからです(非核保有国の通常兵器での優勢は核保有国の核兵器使用で逆転されてしまう・・・)。

核の抑止力の重要性に思い至れば、真に中国による台湾侵攻を止めようと考えているのならば、ペロシ米下院議長がすべきは、台湾を訪問することではなく、本国の議会にあって台湾に対して核の傘を確実に提供するための法案を成立させることであったように思います。米中国境正常化の後、米台間には「台湾関係法」が成立しており、両国は、事実上の軍事同盟関係にあります。同法により、アメリカは台湾に武器を提供でき、同武器に核兵器を含めることもできる状態にありますので、新たな法律は、これを確実にするための二重保障となりましょう。

その一方で、台湾の武力併合を公言している中国は、アメリカが台湾に対して核兵器を提供するはずはないと思い込んでいる節があります。おそらく、台湾への核兵器供与については、アメリカ国内にあっても十分には議論されておらず、敢えて曖昧のままにしておくという戦略を選択しているのでしょう。そしてそうであるからこそ、台湾危機に直面する今日、アメリカは、議会による立法であれ、大統領の声明であれ、中国に対して、仮に軍事侵攻計画を実行に移した場合には核による報復があることを明言しておく必要がありましょう。米ソ冷戦時代のように、超大国である核保有国相互の間では、相互確証破壊の論理が作用する可能性が極めて高いのです。

もっとも、同法案の成立をめぐっては、アメリカ国民の命にも関わる議論となるだけに、慎重論や反対論も予測されましょう。親中派議員等による妨害のみならず、アメリカの提供した核の傘は開かないと踏んだ中国が台湾に侵攻した場合、台湾のためにアメリカが中国から核による報復攻撃を受ける覚悟を問われるからです。仮にアメリカが従来通りの曖昧戦略をとるならば(核の傘が開かない可能性が高い・・・)、台湾は、自らの核武装を急ぐ必要があるかもしれません。台湾国内には原子力発電所が稼働していますので(プルトニウムの貯蔵・・・)、同国の科学技術力をもってすれば、台湾は、自前で核爆弾を製造することができましょう。

何れにしましても、台湾危機にあって急ぐべきは、中国を挑発することでも(意図的?)、道義心に訴えて中国に対して核の先制使用を求めることではなく、同等の物理的な力を以てそれを外部から止めることなのではないでしょうか。そしてそれは、間接的ではあれ、アメリカ、あるいは、米中両国を背後から操る超国家権力体の本心を人類の前に明かすことでもあると思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元統一教会が‘だめ’で創価学会が‘よい’わけはない

2022年08月08日 10時19分09秒 | 国際政治
 ネット上に配信されているニュース記事を見ておりますと、元統一教会に対する批判にあふれる一方で、最近、おかしな論調の記事も見受けられるようになりました。それは、‘元統一教会と創価学会を同一視すべきではない’というものです。こうした記事は、安部元首相暗殺事件と関連し、かつ、自民党と癒着している元統一教会は批判されて当然であるけれども、自民党と一線を画する創価学会には問題はない、という創価学会擁護論として書かれたのでしょう。しかしながら、その教義や教団としての体質を見る限り、創価学会が不問に付されてよいはずもありません。

 これらの記事やそれに賛同するコメントが創価学会を擁護する主たる根拠の一つは、自民党と創価学会との間の政治信条の違いにあります。要約しますと、元統一教会は、対中脅威論や憲法第九条改正を含む軍備増強を訴えてきた自民党のタカ派を支えてきた教団である一方で、創価学会は、世界平和を志向するハト派的な教団であり、日本国を中国との戦争に導くような危ない組織ではないとしているのです。防衛や安全保障に対する基本姿勢が根本的な違うのですから、両者を同列に論じることはできず、平和の使徒である創価学会を批判するのは誤りであると言いたいのでしょう。

 しかしながら、創価学会が憲法20条に定める政教分離の原則に反する存在であり、かつ、非民主的な独裁体質を備えた教団であることは疑いようもありません。また、「総体革命」という名の日本国乗っ取り計画の下で、積極的な政界、官界、財界、教育界・・・への信者浸透戦略を実行してきたことも事実です。元統一教会であれ、創価学会であれ、近現代に設立された新興宗教団体とは、超国家権力体の実行部隊である可能性も高く、政治信条の違いは、同教団の存在を決して正当化しないのです。

 むしろ、元統一教会と創価学会との正反対とでも言うべき違いは、自公連立政権が、超国家勢力による二頭作戦の一環であった可能性を強く示唆しています。先ずもって、反日政策を国是とし、極東において軍事的な脅威となるのは、中国、北朝鮮、並びに、韓国の三国です。自公政権とは、これら三国を二つの党に振り分ける形態となります。つまり、自国連立政権とは、自民党=元統一教会=韓国(冷戦崩壊後は+北朝鮮・・・)から成る右派グループと、公明党=創価学会=中国・北朝鮮によって構成される左派グループとによる連立政権として理解されるのです。そして、どちらのグループを探しても、肝心の‘日本国’が存在していないのです。

 しかも、自民党も公明党も、極めて巧妙に国民に対して自己を欺いています。統一教会=韓国が裏から糸を引く自民党の軍備増強や愛国心の高揚は、日本国並びに日本国民を再び世界大戦へと駆り立てるためのポーズであり(偽旗作戦・・・)、創価学会=中国・北朝鮮がコントロールする公明党は、共産党や社民党といった革新系の政党を名乗らずして内部から日本国を弱体化する左派の役割を果たしているのかもしれません(偽装政党・・・)。公明党による国土交通相ポストの長期独占により、尖閣諸島周辺海域を含む日本国周辺海域の海上警備も手薄となることでしょう。外国人への地方参政権の付与や多文化共生主義など、公明党の主張は、左派政党のそれと殆ど差異がないのです。

陰謀の冷戦崩壊後、左派政党の存在意義が薄れたことと、安定を好む日本国民の国民性から政権交代が難しいことを察知した超国家権力体は、自民党と公明党の双方において内部化している新興宗教団体をもって、‘日本国’を挟み撃ちにする体制を整えたとする見方も、あり得ないことではありません。そして、いざ、戦争ともなりますと、これまでの日本国弱体化工作が致命的な弱点となって、甚大な被害と無慈悲な犠牲が日本国民に降りかかってくることでしょう。

 合理的、かつ、科学的な見地から山上容疑者による単独犯行があり得ない安倍首相暗殺事件は、日本国民の多くが陰謀の実在性をより強く意識せざるを得ない状況をもたらしています(コロナ・ワクチン接種推進もその目的が疑わしい・・・)。人々が危険性と隣り合わせにある今日、政治の世界、とりわけ‘世界政治’の世界にあって、詐術的な手法が乱用されてきた歴史は、ゆめゆめ軽視してはならないのでしょう。騙されないためには、新興宗教団体が醸し出す有形無形の同調圧力に屈することなく、自らの懐疑心に正直であるべきなのかもしれません。今日ほど、疑いという内面から発する知性や理性の正常な働きを尊重する、懐疑主義の復権を必要とする時代はないのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍事的脅威に直面する国はNPTから脱退できる-中国の対日恫喝

2022年08月05日 12時24分18秒 | 国際政治
中国軍関係者の談として報じられたところによりますと、今般、ペロシ下院議長の訪台に対する‘報復’として中国が実施した軍事演習の対象には、日本国も含まれるそうです。実際に、日本国のEEZ内にある沖縄県周辺の海域にも、中国軍が発射した11発のミサイルのうち5発が落下しております。否が応でも米中間のみならず、日中間の緊張も高まっているのですが、戦争に発展する事態が想定されるからこそ、改めて考えてみるべき点があります。

8月1日より、ニューヨークにおいてNPT再検討会議が開催されていますが、西のウクライナ危機に続き、東の台湾危機が発生している今であるからこそ考えてみる点とは、NPTの条文です。同条約の第10条には、脱退に関する以下の条文が記されています。

「各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する・・・」

以下に、国連安保理に対する3ヶ月前の通知という脱退手続きが記されているのですが、この条文から理解されることは、NPTは平時における条約であって有事、あるいは、軍事的衝突が懸念される状況下における適用は想定されていないという点です。考えても見ますと、同脱退条項は、当たり前と言えば当たり前です。何故ならば、物理的な力によって勝敗を決する戦争にあっては、兵器の能力が最大の勝利要因となりますので、一方にのみ絶対的な優位性を約束する兵器の保有、並びに、使用を認めると言うことは、合理的に考えればあり得ません。たとえ通常兵器において勝利を目前にしていたとしても、核保有国が非核保有国に対して核兵器を使用すれば、戦局はいとも簡単に逆転してしまうからです。勝利まで至らなくとも、少なくとも‘相打ち’まで持ち込むことはできましょう。現代に登場した核兵器は、古代ヒッタイトの鉄製武器、アレキサンダーのプランクス戦法、モンゴル帝国の騎兵そして近世の鉄砲や大砲の登場に勝る威力があるのです。

NPTの条文を丁寧に読みますと、戦時あるいは戦争リスクが強く認識される状況下においては、何れの締約国も核兵器の保有が国際法において許されているとしか解釈のしようがありません。この点を考慮しますと、ロシアによる軍事介入に直面しながら核保有という選択を怠ったウクライナの行動の方が、余程、不可思議なのです。あたかも、戦時にあってもNPTは厳格に遵守しなければならず、核兵器は保有できない、という条約上の拘束があるかのようにウクライナは振る舞っているのです。

同国がNPTからの脱退する正当な権利がありながらこれを行使しなかった理由としては、三次元戦争の視点から推理しますと、あえてNPT体制を維持するために同オプションを無視したのかもしれません。超国家権力体にとりましては、世界支配のためには、安保理理事国にして軍事大国でもある五カ国のみならず、イスラエルや北朝鮮(脅迫要員?)のみに核を独占させる方が好都合なのでしょう。ウクライナの非合理的な対応は、ウクライナ危機もまた、裏から操られた、あるいは、演出された可能性を示唆しているのです。

そして、台湾危機が中国による攻撃の可能性を高めている今日、日本国もまた、現状を‘この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしている’として、NPT第10条に基づいて同条約から脱退することができるはずです(なお、NPTでは、3ヶ月前の通告を義務づけていますが、奇襲攻撃を受けるリスクが高い場合には、正当防衛権の行使として事後的であれICJ等に対して脱退の合法性を主張できるはず・・・)。中国の脅威に対抗するために、NPT再検討会議における議論の如何に拘わらず、日本国政府は、早急にNPTからの脱退に舵を切り替えるべきなのではないでしょうか。仮に、ウクライナと同様に、日本国もまた核保有に二の足を踏むならば、台湾危機にも超国家権力体が準備したシナリオがあるとする疑いがより一層濃くなるのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾有事が示唆する日本国の核武装の必要性

2022年08月04日 10時30分17秒 | 国際政治
アメリカのペロシ下院議長の訪台により、米中両国が双方とも台湾周辺海域に空母を派遣するという事態が発生しています。同議員の訪台については、米国内外を取り巻く政治事情を見据えた英断であるとする評価が見受けられる一方で、中国の過剰とも言える反応を考え合わせますと、いたずらに軍事的緊張を高めたとする批判もあります。仮に、両国間において軍事衝突が起きれば、第三次世界大戦への道も絵空事ではなくなります。しかも、今般の米中両国による一触即発の状況は、世界支配のためのシナリオの一環である可能性もあり、何としても、米中開戦は回避しなければならない重要課題となりましょう。

日本国にとりましても、米中戦争は他人事ではありません。先ずもって、開戦と同時に米軍の前線基地を叩くべく、人民解放軍が既に照準を合わせて準備してきたミサイルが在日米軍基地に向けて一斉に発射される可能性も否定できないからです。在日米軍基地は、「日本国の施政下にある領域」にありますので、日米安保条約の第5条が発動されることでしょう。言い換えますと、米中開戦は、日中開戦をも意味しかねないのです。

ここで注目すべきは、台湾有事に端を発する中国による日本列島への最初の攻撃は、米軍基地が対象となると想定される点です。仮に在日米軍基地を狙うならば、人民解放軍の攻撃手段は、上述したようにミサイルを用いざるを得ないこととなりましょう。米中戦争の段階では、中国には、日本国に対して攻撃を加える正当な口実はありません(もっとも、人民解放軍が、台湾と同時に尖閣諸島を侵略する可能性もありますが・・・)。日本国の領海や領空で自衛隊並びに米軍と闘い、日本国の制海権や制空権を奪うには相当の戦力の消耗を要しますし、否、返り討ちに遭うリスクもあります。中国にとりましては、人民解放軍を無傷なままで温存させ、在日米軍基地を含む日本国を壊滅させる最も効率的で効果的な手段はミサイルなのです。

中国による軍事行動にあって、最も恐れるべきはミサイル攻撃となりますと、日本国の防衛はあまりにも脆弱です。ミサイル防衛システムの開発は遅々として進まず、ミサイル攻撃に対してはいわば丸腰の状態にあります。日本国政府は、ウクライナ危機を目の当たりにして、防衛費の増額を伴う防衛力の増強を約束していますが、中国によるミサイル攻撃を防御できないのであればば意味はありません。現時点で米中戦争が起きれば、座して死を待つ状況となりかねないのです。

もっとも、最初の在日米軍基地に対する攻撃に際しては、中国は、核ミサイルの使用は控えることでしょう。即、アメリカによる核による報復を受けるからです(核大国間における相互確証破壊の作用・・・)。もっとも、米中戦争から日中戦争へと拡大した場合には、中国は、小型核兵器を含めて日本国に対してのみ核兵器を使用する可能性は相当に高いと言わざるを得ません。ウクライナ危機で明らかとなったように、アメリカが自国に対する核攻撃のリスクを負ってまで同盟国のために核の報復を決断するとは思えないからです(もっとも、対日核使用の報復として、米国が中国に対してミサイル発射基地、並びに、SLBM搭載の中国軍潜水艦の全てを壊滅するような一斉核攻撃を行う場合に限り、中国から米国本土への核による反撃は封じられる・・・)。

将来的には、ミサイル攻撃を完全に防御する、あるいは、無力化する軍事システムが確立するのでしょうが、それまでに間、ミサイル攻撃に対して無防備、あるいは、防御力不足の状態は続くこととなります。となりますと、完全ではないにせよ、唯一の防御手段は、核の抑止力に、核保有国に対する軍事行動のハードルを飛躍的に高める戦争抑止力をも期待する、核保有と言うことになりましょう。年初にあって、核の不使用は、安保理常任理事国でもある核保有5カ国が合意し、かつ、岸田首相も、今般のNPT再検討会議において公表した「ヒロシマ・アクション・プラン」の一つに挙げていましたが、戦時にあっては、如何なる局面にあっても核が使用され得る可能性があります。否、核の不使用は、むしろ、核の抑止力までも弱めてしまうのです(抑止力の源泉は、核使用の可能性に対する恐怖心にある・・・)。

このように考えますと、台湾海峡における米中間の緊張の高まりにより、日本国は、核武装の必要性に迫られているように思えます。この必要性は、中国による軍事侵攻の危機に直面している台湾にも認められましょう。そして、各国による核武装が第三次世界大戦への発展を防ぐ効果もあるとしますと、人類が、三次元戦争において勝利を収める未来も見えてくるのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペロシ下院議長の訪台を三次元戦争の視点から見ると-米中合作?

2022年08月03日 13時42分15秒 | 国際政治
ウクライナ危機は、ウクライナを支援するアメリカの対ロ関係のみならず、覇権主義においてロシアと同質とみる中国との関係をも悪化させる要因となりました。今般のペロシ下院議長の台湾訪問も、自由主義並びに民主主義体制を擁護する姿勢を中国に見せつける対中牽制の狙いもあるのでしょう。ペロシ下院議長を乗せてマレーシアを飛び立った航空機は、米軍機であったそうです。

一日足らずとはいえ、ペロシ下院議長の訪台に対しては、勇気ある行動として評価する見方もあります。‘アメリカは、台湾を決して見捨てない’とする強いメッセージであり、台湾政府も国民も、さぞや心づく強く感じたことでしょう。本日、8月3日には、同議長は、台湾総統の蔡英文女史との会談のみならず、同国の議会である立法院の訪問も予定しており、権力分立を否定する共産党一党独裁国家、中国に対する‘当てつけ’なのかもしれません。

 その一方で、ペロシ下院議長の訪台に対する中国の反応は‘激烈’です。同議長は、過去にあって天安門事件を厳しく批判すると共に、チベット人やウイグル人への弾圧、並びに、香港問題についても人権問題として糾弾してきました。中国にとりましては、同議長はもとより‘好ましからざる人物’なのです。そのペロシ下院議長が、習近平国家主席が併合の方針を公言して憚らない台湾を訪問したのですから、中国は、「中国の主権と領土の侵害」とまで述べて猛反発しているのです。しかも、‘国家の主権と領土侵害’との認識にありますので、その反発は、外務省声明という名の共産主義国家ならではの口汚い‘口撃’に留まりません。

 報道によりますと、中国政府は、8月4日から7日にかけて「台湾を取り巻く海域6か所で実弾射撃訓練を実施する」と通告しているそうです。中国側では、既に中国軍用機「Su(スホイ)35」が「台湾海峡を通過している」とする中国国営新華社通信等による報道があります。その一方で、台湾のメディアも、‘中国軍のミサイル駆逐艦の航行が確認され’ると共に、‘空母「遼寧」と「山東」が出港した’とも報じています。‘台湾海峡波高し’の状況にあるのですが、米軍もまた、米海軍の関連団体「米海軍協会」によれば、米空母ロナルド・レーガンがフィリピン海に、強襲揚陸艦トリポリが沖縄周辺に展開しているそうです。

かくして、メディアは、偶発的な事件が米中間の軍事衝突を招きかねない危機的現状を報じることになるのですが、果たして、この米中間の対立激化は、両国間の応酬による偶然の成り行きなのでしょうか。このまま事態がエスカレートすれば、第三次世界大戦を招きかねないのですが、三次元戦争の視点から見ますと、以下のようなシナリオもあり得るようにお思えます。

 三次元戦争における第三の当事者は、国家ではなく超国家権力体です。そして、この勢力の目的は、第三次世界大戦を引き起こすことであり、二次元における当事国の一国は、ロシアであっても中国であっても構わないのです。ウクライナ情勢は、今日、膠着状態に陥っている上に、各国とも第三次世界大戦、あるいは、核戦争を警戒して、思い通りに戦線を拡大することができません。そこで、次なる‘発火点’として白羽の矢を立てたのが台湾であり、このためには、偶発的な事件を装って米中間の軍事的衝突を起こす必要があります。同シナリオにあっては、ペロシ下院議長の訪台は中国に対する‘挑発’であり、中国の過激とも言える軍事的対応も戦争への道を自然に見せるためのカバーストーリーの一幕なのです。

もっとも、超国家権力は、中国に対してはより手の込んだシナリオを準備しているかもしれません。体何故ならば、習主席の立場が危ういとする報道があるからです。同主席は、人事を掌握し切れていないとする報道もあります。同報道が事実であるならば、習主席は、自己を頂点とする独裁体制を維持するために、戦争に訴えるかもしれませんし、河北省の避暑地である北戴河にて毎年開かれている、歴代指導者や共産党幹部が結集する秘密会議において、アメリカに対する手ぬるい対応を責められ、開戦の決断を迫れるかもしれません。あるいは、上述した習体制の動揺が事実であるならば、同会議にあって、超国家権力体は習主席の首をすげ替えて、中国のトップにより戦争遂行にふさわしい人物をキャスティングするかもしれません。何れのシナリオであっても、誰もが納得してしまいそうなカバー・ストーリーです。

過去の二度の世界大戦に遭っても、背後から超国家勢力が各国を巧妙に操っていた節があります。ウクライナ危機にせよ、台湾危機にせよ、各国政府も国民も、三次元戦争の視点からシナリオの存在を疑ってみることも大事な作業なのではないかと思うのです。‘時代の潮流’なるものに流されて、多大なる犠牲を払わされないために。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田政権もカルト政権?-「核なき世界」のお花畑

2022年08月02日 12時54分54秒 | 国際政治
 昨日、8月1日からニューヨークにて始まったNPT再検討会議は、核戦争へのエスカレートが危惧されるウクライナ危機の最中での開催だけに、国際社会からかつてない注目を集めています。唯一の被爆国である日本国を代表して岸田文雄首相も出席し、各国代表を前に演説を行ったのですが、同演説、どれほどの諸国の代表の心に響いたのでしょうか。これが怪しい限りなのです。

 岸田首相の演説の内容とは、大まかに言えば、‘核戦争の危機にある今だからこそ、非核化に向けて前進しよう’というものです。岸田首相が被爆地である広島出身ということもあり、同演説では、5つの行動計画からなる「ヒロシマ・アクション・プラン」も公表されています。5つの行動とは、(1)威嚇を含めた核兵器不使用の継続、(2)透明性の向上、(3)核兵器の減少傾向の維持、(4)核兵器不拡散と原子力の平和利用の促進、(5)各国首脳の被爆地訪問となります。この他にも「ユース非核リーダー基金」なるものを国連に設け、若者世代が被爆の悲惨な実態を知るためのネットワークを構築すると共に、各国の現・元首脳向けには、「国際賢人会議」の第一回会合を広島で開催するとも語っています。しかしながら、このプラン、‘お花畑’としか言いようがありません。

 第1に、核兵器の不使用を提起していますが、ウクライナ危機にあってロシアは既に核兵器の使用を示唆し、威嚇に用いている現実があります。今年の1月3日には、米英仏ロ中の国連安保理常任理事国の五カ国によって「核戦争の防止と軍拡競争の回避に関する共同声明」が発表されていますが、ロシアのみならず、中国が同声明の内容を誠実に遵守すると信じる人は殆どいないことでしょう。また、この行動規範は、核保有国を対象としていますが、首相のいう‘核保有国’にイスラエル、インド、パキスタン、そして、北朝鮮が含まれていなければ意味がありません。これらの諸国には何らの義務も課されませんので、非核保有国は、核による威嚇や攻撃の危機に晒され続けるのです。なお、核を保有していても使用さえしなければ‘問題なし’ならば、この核不使用の原則の下で、日本国を含む中小の非核保有国が抑止力として核を保有することも許されるはずです。つまり、核不使用の原則は、抑止的核保有の原則ともなり得のです(この点は、肯定的に評価できるかもしれない・・・)。

 第2、透明性の向上につきましても、あまりにも非現実的と言わざるを得ません。昨日、日経新聞の8月1日付の朝刊の一面には、「新疆核実験再開の兆候」とする見出しの記事が掲載されていました。この記事を読みますと、解析に用いた疑惑の衛星画像は、アメリカの民間企業であるPlanet Lab社よってもたらされたことが分かります。つまり、中国は、常に核開発や核戦略等の実態を隠しているのです。台湾有事を睨んで米中両国が小型核の開発競争にしのぎを削る中、今後とも、非核国の日本国の首相の呼びかけによって、中国が、自らの核戦略をオープンにするとは考えられません。なお、首相は、頓挫している核兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)の交渉開始を求めていますが、この条約は、むしろ、原子力発電で生じるプルトニウム生産をも規制することとなるため、非核保有国の潜在的な核保有オプションを封じることが目的であるのかもしれません。

 第3に、岸田首相は、核兵器の減少傾向の維持と述べておりますが、核弾頭の削減が進展したのは米ロ間のみです。中国については今なおも野放しの状況にあり、同国が、対米バランスを目指して核弾頭数を増やしていることは疑い得ません。米中対話を後押しするともありますが、両国とも、それが結局は‘化かし合い’となることに内心気づいているはずです。

 第4につきましても、核保有国でさえ北朝鮮の核を放棄させない現状を全く無視しております。否、北朝鮮の事例は、経済的には最貧国であっても、核兵器さえ保有していれば、対等な立場から核保有国、すなわち、軍事大国を牽制し得る事例となっているのです。その一方で、ウクライナの事例は、「ブタペスト合意」を信じて核を放棄したものの、決して核保有国によって安全を保障されることがなかった悲劇を国際社会にまざまざと見せつけています(「ブタペスト合意」によってウクライナは、核保有を断念することの見返りとして、ロシア側から軍事侵略を受けないことが約束されていた)。

 そして、第5の各国首脳の被爆地訪問につきましても、その効果は期待薄です。何故ならば、原子爆弾の非人道性、並びに、その被害の凄まじさを知れば知るほどに、各国ともに、核攻撃を受けないがための抑止力としての核を保有しようとする意識も強まるからです。また、威喝として保有しようとする国も出てくるかもしれません。ミサイル防衛システムが未完成な今日において、核攻撃を防ぐ唯一の現実的な手段は、残念なことに核の抑止力しかないのが現状なのです。

 楽観的な見通しや油断が許されない国際社会の現状を知る各国の代表にとりましては、首相の演説は、いかにもこの世離れしたように聞こえたかもしれません。今般、安倍首相暗殺事件を機に自民党と新興宗教団体との関係が問題視されることとなりましたが、岸田首相の演説を聞く限り、同政権もまたカルトに染まっているのではないかと疑いも生じます。「核なき世界」を無責任に唱えていられるほど暢気な時代ではなく、目下、現実を見据えた合理的で冷静な思考を要する局面にあります。カルトというものが洗脳によって人の正常な認識力や合理的思考を歪めるならば、同提案は、まさしくカルト的なのです。

 もっとも、岸田首相の提案は、世界支配の観点からしますと、「核なき世界」という美名の下で中小の非核国を自発的にNPT体制に従わせるという意味においては理解の範疇に入りますし、詐術的ではあっても‘合理的’ではあります。新興宗教団体が超国家勢力によって組織された実行部隊である可能性を考慮しますと(NPT再検討会議については、政教分離の原則を無視して創価学会の池田大作氏も緊急提言を行っている・・・)、岸田政権は、やはりカルト政権にして傀儡政権なのかもしれないと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二つの平等の区別を-対等化と画一化は違う

2022年08月01日 12時41分08秒 | 社会
 フランス革命のスローガンにも含まれる自由と平等という価値については、極少数の権力欲に駆られた人々を除いて、大多数の人々はその尊重を是とすることでしょう。あるいは、少なくとも、他者から自由を束縛されたり、不当に差別されたりはしたくないはずです。今日の国際社会では国際人道法も整備され、人類共通の普遍的な価値として当然視されているのですが、平等には、二つの側面が含まれているように思えます。

 古今東西に見られたように、不条理な身分制などが公的に存在している場合には、ピラミッド型のヒエラルヒーでは上位身分は少数者となりますので、大多数の国民は平等化を歓迎します。平等という価値が最も輝きを放つのは、身分、性別、宗教といった属性の違いによって人としての扱いが違ってしまう(多民族国家では人種や民族性・・・)、理不尽で無情な上下関係をなくしたことにありましょう。平等という価値は、個々人の間での対等性を確保し、それを法の前の平等の原則の下で保障してこそ、極めて重要な価値なのです。平等の第一の側面は、個々人間の対等化です。

 その一方で、第二の平等の側面とは、画一化です。画一化としての平等にあっては、人々は、他者と違った属性を有したり、発言や行動をとることが許されなくなります。平等という価値は、上記の人と人との関係性を対等にするのではなく、個々人の個性はローラーで引くように押しつぶされる方向に働くのです。完全なる人類の画一化を達成するためには。DNAレベルでの均一性まで要求されますので、もはや全人類を同一の遺伝子で造られたクローン人間化するしかなくなります。つまり、はっきり言って不可能なのです。

それでは、今日における平等とは、どちらの側面が強いのでしょうか。上述したように、完全なる画一化は夢物語なのですが、グローバル化を背景に、‘多様性の尊重’という美名の下で(対等化としての平等)、急速な画一化が全世界レベルで進行しているように思えます。各地の街角の風景から個性が失われ、人々が着ている服装も、都会であれ田舎であれ、変わり映えがしません。Tシャツとジンズ姿の若者達だけを見れば、ニューヨークも上海も、そして、東京もさして変わりはないのです。この傾向は、全国民が一律に人民服を着せられていたかつての中国のような全体主義が、全世界レベルで静かに浸透していることの現れなのかもしれません。

そして、何よりも警戒すべきは、人々の発言や行動についても、画一化としての平等の価値が押しつけられることです。例えば、国籍、民族、年齢、DNA、性別、出身地、家系、学歴、能力、性格、・・・などのあらゆる属性に関する差異についての発言は、平等に反するとして一切禁じられ、法的な処罰の対象となりかねません(現実には、人々の間には違いは完全に消去できないので、言論を封じることに・・・)。その先には、血脈や家族を表す氏姓さえ廃止させられ(国籍や戸籍も廃止?)、各自がナンバーや記号で呼ばれる未来が待っているかもしれないのです。

また、画一化としての平等化は、同調性の要求として個々人の行動にも及ぶことでしょう。例えば、今般、コロナワクチンの接種については、強い同調圧力がかかりましたが、マスメディアや新興宗教団体といった各種動員団体などが社会全体に対する圧力装置となり、人々を同一の行動へと駆り立てていくかもしれません。もはや、‘人と違った行動’は許されないのです。

かくして、全体主義的抑圧体制は、平等という‘善意’の顔をして構築されてゆくこととなります。つまり、平等、否、画一化が人々から自由を奪うのです。となりますと、ここで、自由と平等という二つの価値が真正面から衝突するのですが、自由というものが、独立した主体としての個人の生命、意識、身体を前提として存在する限り、過激な平等主義(画一化)のために自由が犠牲になることを望む人は殆どいないことでしょう。しかも、この過激な平等化政策とは、得てして、自己の自由のみを極限までに拡大しようとしている権力者による支配の手段に過ぎないのですから。数に勝るマジョリティーを対象とした画一化とは、強制装置を備えた強大な権力がなければなし得ないことでもあるのです(何人であっても、他者に対して自分と‘同一’となるように要求はできないはず・・・)。

政策決定権を握る人物が‘平等’の価値を掲げる時ほど、国民にとりまして危険な状況はないのかもしれません。国家が定めた‘規格’から外れた国民は、存在してはならない者、即ち、排除の対象となるからです。フランス革命が国民の大量虐殺を帰結し、平等化を誘因として成立した共産主義体制が国民弾圧・抑圧体制となったのも、過激な平等主義が自らの支配体制成立に役だったからに他なりません。

このように考えますと、過激な平等主義による全体主義化の魔の手から逃れるためには、まずもって、平等という価値にあって渾然一体となってきた対等化と画一化の二つの側面を明確に区別する必要がありましょう。そして、平等の価値とは、本来、個々人の間の対等性にこそあるのですから、この側面にこそ立ち返るべきかもしれません。平等の名の下で画一化を要求されたときには、疑ってかかるべきなのです。生き方を含め、たとえ人それぞれに様々な違いがあったとしても、国民が相互に対等な存在として認め合える国家の方が、より善き国であり、自由で豊かな社会なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする