万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

邪な者に‘正義’の看板を与えてはならない-歴史の教訓

2022年08月23日 12時19分09秒 | その他
 人類の歴史を振り返りますと、‘正義’の名の下で目を背けたくなるような残虐行為が行われていたり、犯罪がまかり通ってしまう事例を多々見出すことができます。そもそも、旧約聖書では、カナンの地を神が与えた‘約束の地’と捉えたユダヤ12支部族は、神が絶対善であることから、自らを‘正義の者’と見なし、策略を巡らして異民族から同地を奪っています。この事例に示されるように、神=正義という構図は、他者の土地の武力による簒奪という侵略行為さえ肯定しかねないのです。神が絶対善であるならば、ユダヤ人のみに侵略や略奪等を容認するはずもなく、これは、旧約聖書最大の矛盾となりましょう(もっともカナンの地が‘約束の地’となった理由として、エルサレムとアブラハムの祖先との間に何らかの歴史的繋がりがあった可能性もある)。

 このように、善性や道徳・倫理の源泉であるはずの宗教が悪行を容認してしまう事例は枚挙にいとまがないのですが、近代に至っても、宗教に限らず、様々な思想やイデオロギーが同様のお墨付きを与える事例が後を絶ちません。例えば、‘ブルジョア革命’とも称されたフランス革命では、自由、平等、博愛という、何れも否定しがたい普遍的な価値を掲げつつ、反体制派とみなした人々を無慈悲にも虐殺してしまいました。また、‘プロレタリア革命’として体制を転覆させたロシア革命でも、共産主義の‘正義’をもって虐殺と破壊を正当化しています。中国を含む共産主義諸国では、‘正義’を独占した共産党が今なおも反体制派の人々を弾圧し続けると共に、国民の生殺与奪の権を握っているのです。否、もはや、これらの諸国では、‘正義Justice’とは何か、という根本的な問いかけさえ、なされてはならないのかもしれません。

 ‘正義’を唱える者に対して、無条件、あるいは、思考停止状態となって不正行為や犯罪行為を認めるのは、人類の悪しき旧弊と言えましょう。今日なおもこの問題は燻っており、新興宗教団体や政治思想集団の存在についても、改めて‘正義’との関係からその存在意義を疑うべきかもしれません。例えば、平和統一家庭連合(統一教会)はキリスト教団体を名乗り、創価学会も日蓮宗から破門・分離した仏教系の教団であり、新興宗教団体の多くは、伝統宗教の正義や神聖性を借りることで自らの悪行を正当化しています(売国行為も平然と行ってしまう・・・)。また、新興宗教団体の教祖達は、世俗の欲にまみれた人物も多く、霊感商法、並びに、信者の多額献金やお布施の社会問題化も、これらの教団が拝金主義に堕している証かもしれません。パーソナリティーとしてのカリスマ性は、人格としての善良さや純粋な人柄を保障してはいないのです。しかも、宗教という‘衣’は、これらの悪行を上手に誤魔化しますので、世界支配を目論む超国家権力体にとっては好都合な道具ともなりましょう(神や仏を自らの欲望達成のために悪用するのですから、神罰や仏罰があたるのでは・・・)。

 そして、国際主義やグローバリズム、さらには、脱炭素、デジタル化やSDGsといった未来志向の’思想’にも注意を要しましょう(パトリオティズムやナショナリズムも、悪用されれば偽旗作戦に・・・)。これらの言葉もまた、今日にあっては、‘正しさ’に関する深い考察もなく‘正義’とされるからです。脱炭素が錦の御旗となれば、緑豊かな森林やそれに付随する生態系の破壊も許されてしまいますし、デジタル化を持ち出せば、プライバシーの侵害や情報漏洩のリスクも‘気にしてはならないもの’とされます。アメリカ大統領選挙における不正選挙問題は、民主的選挙における投票や開票システムのデジタル化が悪用された最たる事例かもしれません。民間企業の投資判断や評価基準もあっても、国連が推進しているSDGs(ESG投資・・・)一色となっている今日の現状は、世界支配の陰が疑われるだけに、どこか疑わしさがあります。事例を挙げればきりがないのですが、WHOの主要な出資者がビル&メリンダ財団であり、かつ、テドロス事務総長が中国の‘代理人’として批判されている現実も(中国ではなく、本当は超国家権力体の代理人?)、同組織が、人類の生命や健康を守るという正義を掲げながら、その実、真逆となりかねないリスクを示していると言えましょう(ワクチン接種奨励の真の狙いとは?)。

 以上に‘正義’というものが悪用されるリスクについて述べてきました。歴史的事例の多様性からしますと、‘正義’という言葉は、それぞれのケースに合わせて神聖性、正当性、合理性といった言葉に読み換えるべきかもしれません。何れにしましても、宗教的な教義のみならず、平和、自由、平等、人権、環境など、それがたとえ人類普遍の価値とされるものであったとしても、これらを絶対的な‘正義’として掲げる人物や組織に対しては、冷静なる警戒が必要です。とくに、邪悪な心を持つ者、荒くれ者、利己的で強欲な者に‘正義’の看板を掲げることを許しますと、悪しき暴力的な行為や詐欺的な行為の免罪符となりかねないからです。‘正義’をかざせば何でもできるならば、罪のない人々に対する情け容赦ない迫害や残虐行為がまかり通ることになりましょう。‘邪な者に‘正義’という看板を与えてはならない‘、これこそ決して繰り返してはならない、人類が歴史から学んだ教訓なのではないではないかと思うのです。

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