秋篠宮家の悠仁氏の東大推薦入学問題は、象徴天皇制度を根底から問う展開となりました。昨今、ウェブ上で実施されたものの、‘人権侵害’のクレームを受けて閉鎖に追い込まれた署名サイトの文面は、「悠仁様が東大の推薦入試を悪用し、将来の天皇として『特別扱い』で入学されることは、象徴天皇制を根底から揺るがすこととなるため反対します」であったそうです。しかしながら、象徴天皇制は、既に根底から揺らいでいるのではないかと思うのです。
同サイトの文面は、‘悠仁氏の東大推薦入学を諦めれば、象徴天皇制は今後ともつつがなく維持される’とも読めます。特権の濫用による不当な‘裏口入学’を諦めれば、国民の多くから反発も受けることはなく、象徴天皇制も安泰であろうという意味合いです。言い換えますと、同署名サイトを設けた人は、‘皇室に反対する人’という印象とは逆に、象徴天皇制が今後とも保たれることを望んでいることとなりましょう。いわば、象徴天皇制を守るための、その永続において障害となる行為を排除するための署名活動とも言えます(もっとも、本心であるかどうかは不明・・・)。
その一方で、秋篠宮家には既に皇籍を離れているはずの小室夫妻をはじめその行状には眉をひそめる国民も少なくなく、皇嗣である秋篠宮の系統に皇位が継承されることに反対する意見もあります。‘将来において秋篠宮家の悠仁氏が即位すれば皇室は終わる’とする説であり、この場合には、今上天皇夫妻の長女である愛子氏の皇位継承を求めていることとなります。こちらの主張は、‘悠仁氏の皇位継承を諦めれば、象徴天皇制は今後ともつつがなく維持される’と読めます。
これらの二つの主張は、何れも象徴天皇制の継続を、何らかの条件の充足による一種のバーター取引としています。○○が実現すれば、同制度を認める、という条件付きの象徴天皇制維持論です。しかしながら、明治以降の天皇を取り巻く思惑や存在意義を考慮しますと、この問題は、皇位継承や皇族の個人的な資質や言動の問題に留まらず、国家の制度としての存続性が問われているように思えます。一個の人格をもって象徴となるのは不可能である点は、先日、本ブログの記事で論じましたが、象徴天皇制には、現代人の理性や知性に照らして、幾つもの根本的な問いかけがあるからです。
第一に、必ずしも皇統が神武天皇から維持されているとは限りません。そもそも、背後でイギリス内部の一部勢力が蠢いた明治維新の経緯からしますと、孝明天皇と明治天皇との父子関係も疑われています。大室天皇説はよく知られていますが、世襲、しかも、万世一系の皇統をもって天皇の地位が認められている以上、DNA鑑定等により皇統の継続性が証明されない限り、国民は、頭のどこかで不信感を抱き続けることになります。しかも、古代ならいざしらず、現代にありましても、幼少期からの愛子氏にまつわる別人説や替え玉説は、記者会見に登場した少女とのあまりの容姿の違いによって、国民の記憶に残ることともなりました。天皇や皇族が偽者であれば、天皇家自体の存続は不可能となりましょう。その一方で、皇族の自由結婚により、代を重ねるごとに確実に皇統が半減する一方で、古来、皇別氏族が多数派生していますので、天皇の血は、国民の間に広く拡散し続けています。
第二に、皇族という特別の身分を認めることは、国民一般の精神にマイナス影響を与えます。国民の中には、自らを卑下して‘下々の者’や絶対に服従すべき‘臣民’と見なす人もおり、これらの人々は、皇室を批判する意見を不敬として憤ります。しかしながら、皇族という身分の存在が、自らを‘下の者’とする意識を国民に植え付ける、あるいは、それが同調圧力であれ強要されるとなりますと、個々の人格を重んじ、対等な人間関係を築こうとする現代人の意識に反します。しかも、‘我々下々の者’という言い方は、このように自己認識していない人々まで勝手に‘我々’に含めようとしますので、余計に自立的な精神を持つ国民に不快感を与えるのです(せめて、個人的な意見として‘私下の者‘と言って欲しい・・・)。
第三に、天皇の役割、あるいは、存在意義の曖昧性です。伝統的な天皇の存在意義は、その神の子孫に宿るとされる霊力による自然災害や戦からの国家や国民の護持にありましたので、今日、この超自然とも言える能力を要する役割を現代の天皇に期待することは不可能です(伝統的な役割からすれば、自然災害があい継いでいますので、天皇の祈願力が足りないとして退位を求められかねない・・・)。その一方で、国民主権が定着した今日では、明治憲法下のような立憲君主に戻ることもできません。つまり、今日、(1)神聖なる伝統的な祭祀者、(2)立憲君主、(3)象徴天皇という三つの天皇像が混合しており、この曖昧さが、権力や権威の濫用を招いているとも言えましょう。
第四に挙げられるのは、‘菊のカーテン’の存在です。今般の東大推薦入学の問題でも、誰がどのような経路で働きかけを行なったのか、その情報は明らかにされていません。同問題に限らず、皇室には‘菊のカーテンが’降ろされています。情報化社会にあっては、情報を隠蔽したり、マスメディアを使って北朝鮮風味の礼賛プロパガンダを行なうようでは、民意は離れるばかりとなりましょう(インスタグラムなどを開設しても、逆効果となるのでは・・・)。
そして、第五の問題点は、皇室を背後から支える存在への懸念です。第一に述べましたように、明治維新の背後には、今日のグローバリストにも繋がる世界権力が蠢いていた極めて強い疑いがあります。言い換えますと、近代皇室は、日本支配のための‘出先機関’として設けられたのであり(尊皇攘夷が‘偽旗作戦’となった理由・・・)、その存続は、日本国が世界権力の頸木に繋がれるままとなることを意味しかねない懸念があるのです(因みに、英ロスチャイルド家の多くは昆虫や動物の研究に熱心であった・・・)。同様に世界権力の配下にある政治家達の皇室堅持の姿勢やマスメディアの個人崇拝的な報道ぶりも、現状を維持したい同権力の意向を伺え、自ずと警戒感が募ります。天皇の‘存在意義’を考えるに際しては、グローバルな視点を要する時代を迎えているのです。
以上に主要な問題点を述べてきましたが、こうした諸点を考慮しますと、象徴天皇制を含めて天皇については、既に見直しをすべき時期に至っているのではないでしょうか。明治維新から既に150年以上が経過した今日、
、日本国には、再び時代の転換点に直面しているように思えるのです。