報道に因りますと、昨今、オンライン署名サイトにあって「悠仁さまの東大進学に反対する署名活動」が設けられ、1万筆を超える署名を集めながらも、ユーザーからのガイドライン違反の通報を受けたため、同活動は中止されたそうです。同署名活動がガイドライン違反とされたのは、皇族に対する人権侵害に当たるからなそうです。
確かに、皇族であれ、誰であれ、自らが学びたい学校を選ぶのは本人の選択の自由の範囲に含まれます。他者が、当人対して‘○○大学には進学してはいけない’、あるいは、‘○○大学を受験してはいけない’として、入学希望を断念させることはできません。この側面のみを捉えれば、‘人権侵害’という主張にも一理があるように聞えます。大学ジャーナリストの石渡嶺司氏に至っては、ウェブ上の記事において、「仮に報道のとおり悠仁さまが東大への推薦入学を希望されているとして、名門校の学内では推薦を受けるのも高いハードルがあり、そのために論文執筆など努力を重ねて何が悪いのか。ネット上で匿名参加できるのをいいことに騒ぎ立てる行為はあまりに悪質ではないか」と述べ、怒り心頭に発しているようです。
しかしながら、皇族の東大推薦入学問題の核心は、国民の皇族に対する‘人権侵害’にあるのではなく、被害者と加害者の立場からしますと、真逆なのではないでしょうか。国民の多くが、皇族による不当な権利要求、すなわち、社会的不正義を敏感に感じ取ったからこそ、1万人を越える反対署名を集める結果となったのではないかと思うのです。
それでは、皇族による推薦入学制度の利用が、何故、国民に危機感をもたらしたのか、と申しますと、‘他の一人の受験生の入学チャンスを奪うから’とするゼロサム的な説明もあるものの、公的制度に対する皇族による私的介入に起因する権威、あるいは、権力の濫用問題に他ならないからです。しかも、濫用対象、あるいは、介入対象が、入学の選考に際して公平・中立性が強く求められる国立大学であったからこそ、国民の関心も高まり、事が大きくなってしまったとも言えましょう。
コンテストやスポーツといった如何なる競争を伴う選考にあっても、公平性が揺らぎますと、結果そのものが無意味となります。無意味とどころか、不正行為の結果として、同結果が人々の怒りを買うことも珍しくはないのです。例えば、ある特別の大会に出場するウェイトリフティングの選手選考に当たって、ある特定の選手に限って他に数人が手伝ってバーベルを上げても良い、とするルールが外部圧力によって導入されれば、同選考は、全く意味をなさなくなります。しかも、リフティングの全国チャンピオンが手伝っても問題なし、ともなりますと、同全国チャンピオンを補助者として取り込んだ選手が選ばれるに決まっています。皇族の推薦入学問題もこの事例に類似しており、皇族だけが周囲や専門家による特別の支援の下で入学が許可されるとしますと、制度そのものの崩壊にも繋がりかねないのです。
石渡氏は、上述したように「名門校の学内では推薦を受けるのも高いハードルがあり、そのために論文執筆など努力を重ねて何が悪いのか。」と凄んでおりますが、推薦を受けるために、皇族が特権を利用したことは、常識的な倫理観から申しまして明らかに‘悪いこと’です(どう考えても正当化できないのでは・・・)。制度の公平性を保つことこそ、公共善なのですから。この問題は、皇族の私益と国家の公益(公共善)との二者択一の問題でもあり、前者のために後者を犠牲にすることはあってはならないことなのです。 ‘論文執筆の努力’は、自らが一人でなした場合にのみ人々に対して説得力を持つのであり、‘何が悪い’という言い方は、‘開き直り’か‘逆ギレ’に聞えてしまうのです。国民の側からしますと、‘悪質’なのは、署名活動ではなく、自らの私的願望のために推薦制度や入試制度を歪めようとした秋篠宮家と言うことになりましょう。
もっとも、同問題において国民的な反対の署名活動を行なうとすれば、悠仁氏の東大進学ではなく、皇族による東大入試制度に対する私的介入に反対する、あるいは、入試制度の公平性の維持を求める署名とした方が、適切であったかも知れません。‘個人攻撃的’とはならず、人権侵害とする批判を浴びたり、クレームを付けられなくても済んだかもしれないのですから。
こうした皇族による公私混同や私事の優先問題は、秋篠宮家に限ったことでも、今に始まったわけでもなく、また、天皇や皇室をめぐっては、進学問題の他にも様々な問題が山積しています。何れにしましても、皇族の欲望によって社会の健全性や公平性が損なわれるのでは、その存在意義は改めて問われて然るべきですし、既に末期的症状を呈する今日、国民的な議論を要するのは、皇位継承の安定化ではなく、天皇の地位は国民の総意に基づく以上、国民の意向に沿った抜本的な見直しなのではないかと思うのです。