私の家からそれほど遠くない場所に、昔の処刑場の跡があると知り合いの人に
聞いていた
その人が案内するというので、処刑場の跡を訪ねることになった。
今日は比較的日差しも暖かく、農道をのんびりと話をしながら歩いて行った
北に筑波山が林の上から顔を見せている。
その処刑場は、田んぼと芝畑のような空き地の間に、草ぼうぼうの場所にあった
処刑場跡地に建てられている石柱、表に経文のような文字が掘ってあり
裏に回っても何の記載も無い
知り合いの人が最初に見たころは、立派な石碑が立っていて、裏面には
由来も記載されていたという。
しかし、不名誉な歴史の跡地は、近くの人には歓迎され無くて、その石碑は
いつの間にか無くなって、このような石柱になったのだろうと知り合いが言う
江戸の昔には、処刑場に関係するサムライの屋敷も有ったらしいが、時代の
変化とともに、四散し今は近くに誰も住んでいない。
知り合いが古老から聞いた話として、最後まで残っていた家に一人娘がいたが
誰にも嫁ぐことが出来なかったという。
また小貝川の河原に建つ雷神様の近くに、昔遊郭があり、そこへ遊びに行った
処刑場の侍が、バレで処刑場で打ち首になったという話も聞いたという。
そんな事で、最初に処刑場に来た頃は、さむけを感じたという。
近所の人たちには、有難迷惑で不名誉な歴史は消したい思いであろう。
しかし完全に消し去ることはできず、処刑された人たちへの、祈りの言葉を
刻んだ石柱として残したのだろう
さんさんと降り注ぐ光の中で、雑草に覆われた石柱は何も語らず
脇の草むらに、無数の空き缶とビンが転がっていた。
聞いていた
その人が案内するというので、処刑場の跡を訪ねることになった。
今日は比較的日差しも暖かく、農道をのんびりと話をしながら歩いて行った
北に筑波山が林の上から顔を見せている。
その処刑場は、田んぼと芝畑のような空き地の間に、草ぼうぼうの場所にあった
処刑場跡地に建てられている石柱、表に経文のような文字が掘ってあり
裏に回っても何の記載も無い
知り合いの人が最初に見たころは、立派な石碑が立っていて、裏面には
由来も記載されていたという。
しかし、不名誉な歴史の跡地は、近くの人には歓迎され無くて、その石碑は
いつの間にか無くなって、このような石柱になったのだろうと知り合いが言う
江戸の昔には、処刑場に関係するサムライの屋敷も有ったらしいが、時代の
変化とともに、四散し今は近くに誰も住んでいない。
知り合いが古老から聞いた話として、最後まで残っていた家に一人娘がいたが
誰にも嫁ぐことが出来なかったという。
また小貝川の河原に建つ雷神様の近くに、昔遊郭があり、そこへ遊びに行った
処刑場の侍が、バレで処刑場で打ち首になったという話も聞いたという。
そんな事で、最初に処刑場に来た頃は、さむけを感じたという。
近所の人たちには、有難迷惑で不名誉な歴史は消したい思いであろう。
しかし完全に消し去ることはできず、処刑された人たちへの、祈りの言葉を
刻んだ石柱として残したのだろう
さんさんと降り注ぐ光の中で、雑草に覆われた石柱は何も語らず
脇の草むらに、無数の空き缶とビンが転がっていた。
筑波近辺は旗本領も多く、処刑場を有した領主が誰であったか特定が難しいものの、大いに興味がわく刑罰施設です。
ご迷惑でなければ、凡その地番をご教示いただけないでしょうか。
メールアドレス:ran310@hotmail.com
なお、私のHPは例えば「茨城県 刑罰施設」とキーワードをつかって検索していただくとHPがヒットします。
ご笑覧ください。
処刑場跡地の地番は不明なので、その場所のGPSポイントを
お知らせいたします。
北緯36度05分27.64秒
東経140度01分48.02秒
となります。
確認したところ、どうやら江戸時代(寛政二年)に上郷につくられた人足寄せ場に関連した供養碑のようです。
人足寄せ場ですから有期刑の罪人が収容されていましたが、中には逃亡を図って捕らえられ寄せ場内の一角で処刑された者もいたようで、供養碑はそのような罪人の霊を弔ったもののようです。以上、お礼かたがたお報せまで。
貴HPを興味深く読みました。
私は元々ここの生まれではないので、上郷の歴史も詳しくはありません。
つくば市の市史資料一覧には、豊里の歴史という資料が販売されてますので
それだけは読んでみようかなと思っています。
コメントありがとうございました。