今回歩いた古徳城跡の散策コースのGPSの軌跡図を載せますが、古徳沼の北側にある
小さな山「勢揃山」と呼ばれるところにあります。
この地図は1万2千分の1を二倍に拡大して表示しています。
標高70メートルの等高線が沼のすぐ上にあり、その上の80メートルの等高線の中に
古徳城跡がありますから、標高としては、それほど高くありません。
本来は、古徳沼の前から階段を登って歩くのでしょうが、今回は水鳥の撮影で奥に行き
そのまま西奥の入口から登って、古徳沼前に降りるコースを歩きました。
周辺の様子がわかるように、20万分の1の地図も掲載します。
薄くてわかりにくいのですが、右側に縦に走っているのが、国道118号線です。
地図の上方に静神社があり、そこから古徳沼の駐車場にくることができます。
ミコアイサを探して中里の溜池にも行きましたので、溜池と帰路に走った
平野台団地の中も描かれています。平野台は戸建ての巨大な団地です。
古徳沼の西奥に立っている「静古徳古道を廻る散策路案内図」
この案内図の右の古徳沼周辺だけを歩いたので、歩いた時間は
17~18分でしょうか。散歩程度で歩けます。
西側の入口に立つ案内板、古徳城跡まで0.1キロの表示がある
静古徳古道は1.1キロと出ている。
落ち葉の散り敷く山道を穏やかに登っていきます。
すぐに尾根上の丁字路に突き当たり、左は静神社1.3キロ、右は
古徳城跡0.1キロの表示がある。あれ入口にも0.1キロと出ていたなー
などと思いながらも、ここは右の古徳城跡へいくのですが
丁字路から見る静神社方面の様子
こちらは丁字路から見る古徳城跡方面の様子
丁字路から右に10数メートルほどの位置にあった古徳城跡の標柱
案内が無ければ、ここが城跡とは誰も気が付かないであろう。
そこから古徳沼方面に向かう道の様子
すると空堀ふうの浅い窪地があった。
空堀の先は、やや広い平坦地でなぜかベンチもおかれていた。
その先の道
そして再び空堀があった。
古徳沼への階段の降り口のそばにもベンチがあった
ベンチの奥に倒れた祠のようなものがあった。
古徳沼前の入口の階段から降りた。
この古徳城跡の説明などの表示は見当たらなかったので、自宅に帰ってから
「図説 茨城の城郭」という手持ちの本で調べてみた。
それによるとね古徳城を築いたのは、大掾義幹の次男 民部大輔義純であったと
記されている。永和元年・(1375年)の事というからおよそ640年ほど
前のことである。
城を築いたあと義純は古徳氏を名乗り、城主としてこの地を支配したという。
しかし、大掾氏が江戸氏に攻撃されて衰退すると、古徳氏は江戸氏の勢力圏に
入り、のちに江戸氏の家臣となる。
だが永正11年(1514年)江戸氏の内乱に巻き込まれて、古徳氏は、江戸氏の
大軍に攻め込まれ、城は炎上、古徳氏一族は50数名の家臣とともに討ち死にし
古徳氏一族は滅びた。
以上は、「図説 茨城の城郭」から引用した概略を加筆したものである。
城の縄張りの図も出ているが、著作物なので無断で掲載できないので作者たちの
ホームページを紹介します。
(この本は、8名の共同執筆で平成18年に出版されたものです。)
最新の情報もホームページで確認できます。
北緯36度付近の中世の城郭
余湖くんのお城のページ
この方が古徳城の事を書いている。
==================================================================
今年も残すところ数時間となりました
来るべき年が、希望の光が差す年でありますように祈りたいものりです。
皆様も健やかな新年を迎えてくださいね
どこかのお山でお会いしましょう。 mino
小さな山「勢揃山」と呼ばれるところにあります。
この地図は1万2千分の1を二倍に拡大して表示しています。
標高70メートルの等高線が沼のすぐ上にあり、その上の80メートルの等高線の中に
古徳城跡がありますから、標高としては、それほど高くありません。
本来は、古徳沼の前から階段を登って歩くのでしょうが、今回は水鳥の撮影で奥に行き
そのまま西奥の入口から登って、古徳沼前に降りるコースを歩きました。
周辺の様子がわかるように、20万分の1の地図も掲載します。
薄くてわかりにくいのですが、右側に縦に走っているのが、国道118号線です。
地図の上方に静神社があり、そこから古徳沼の駐車場にくることができます。
ミコアイサを探して中里の溜池にも行きましたので、溜池と帰路に走った
平野台団地の中も描かれています。平野台は戸建ての巨大な団地です。
古徳沼の西奥に立っている「静古徳古道を廻る散策路案内図」
この案内図の右の古徳沼周辺だけを歩いたので、歩いた時間は
17~18分でしょうか。散歩程度で歩けます。
西側の入口に立つ案内板、古徳城跡まで0.1キロの表示がある
静古徳古道は1.1キロと出ている。
落ち葉の散り敷く山道を穏やかに登っていきます。
すぐに尾根上の丁字路に突き当たり、左は静神社1.3キロ、右は
古徳城跡0.1キロの表示がある。あれ入口にも0.1キロと出ていたなー
などと思いながらも、ここは右の古徳城跡へいくのですが
丁字路から見る静神社方面の様子
こちらは丁字路から見る古徳城跡方面の様子
丁字路から右に10数メートルほどの位置にあった古徳城跡の標柱
案内が無ければ、ここが城跡とは誰も気が付かないであろう。
そこから古徳沼方面に向かう道の様子
すると空堀ふうの浅い窪地があった。
空堀の先は、やや広い平坦地でなぜかベンチもおかれていた。
その先の道
そして再び空堀があった。
古徳沼への階段の降り口のそばにもベンチがあった
ベンチの奥に倒れた祠のようなものがあった。
古徳沼前の入口の階段から降りた。
この古徳城跡の説明などの表示は見当たらなかったので、自宅に帰ってから
「図説 茨城の城郭」という手持ちの本で調べてみた。
それによるとね古徳城を築いたのは、大掾義幹の次男 民部大輔義純であったと
記されている。永和元年・(1375年)の事というからおよそ640年ほど
前のことである。
城を築いたあと義純は古徳氏を名乗り、城主としてこの地を支配したという。
しかし、大掾氏が江戸氏に攻撃されて衰退すると、古徳氏は江戸氏の勢力圏に
入り、のちに江戸氏の家臣となる。
だが永正11年(1514年)江戸氏の内乱に巻き込まれて、古徳氏は、江戸氏の
大軍に攻め込まれ、城は炎上、古徳氏一族は50数名の家臣とともに討ち死にし
古徳氏一族は滅びた。
以上は、「図説 茨城の城郭」から引用した概略を加筆したものである。
城の縄張りの図も出ているが、著作物なので無断で掲載できないので作者たちの
ホームページを紹介します。
(この本は、8名の共同執筆で平成18年に出版されたものです。)
最新の情報もホームページで確認できます。
北緯36度付近の中世の城郭
余湖くんのお城のページ
この方が古徳城の事を書いている。
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今年も残すところ数時間となりました
来るべき年が、希望の光が差す年でありますように祈りたいものりです。
皆様も健やかな新年を迎えてくださいね
どこかのお山でお会いしましょう。 mino