以前なるほど、と思ったフレーズがある。
~ 書き手というのはだいたいにおいて密度を濃くする方がいいと思っているからそっちに傾きがちなのだが、そうするといま書いていることから外に出にくくなってしまう。
ざっくりとした書かれ方は緩いように感じるかもしれないが、
単に事情や経緯を説明する言葉によるナレーションでしかないものではなく、
時として、説明すべき人や物や事をちゃんと映し出し、もっと普遍的で本質的な部分を表現することさえあるように感じる。
カンペキで精巧なものが素晴らしさのすべてでないのは、書き物だけではない。
私たちが好きになるのが、カンペキなスーパーモデルとは限らない。
あばたもエクボ、ではなくて、足りていないがゆえに好ましく感じたりすることは往々にしてある。
それは、単なる傷を舐め合うような低い共感レベルの次元に限った話でもない。
そんなことは、あらためて言われなくても、直感的に或いは経験的に誰もが分かっていることだが、
そういったことを、合点がいくように説明している文章に出会うと私は感服する。
聖書の中の「ローマ人への手紙」を読んでゆく、カール・バルト「ローマ書講解」の一節にある言葉だ。
私が(私だけではないと思うが)、何もかもに恵まれた羨むばかりのモノや生活や人に必ずしも惹かれないことを、一見難解なようだが、遥か昔の人間が的確に言い当てている。
ある人は、他の人にとって何ものかでありうる。
しかしそれは、彼がその人対して何ものかであろうと意志することによってではない。
だから、たとえば決して彼の内面の豊かさによるのではない。
彼が現にあるところのものによるのではなくて、
まさに彼が現にないところのものによって、
彼の欠乏によって、彼の嘆きと望み、
彼の存在の内にあって、彼の地平を越え、彼の力を越えるもによってである。
使徒とは、プラスの人間ではなくマイナスの人間であり、このような空洞が見えるようになる人間である。
そのことによって彼は他の人たちにとって何ものかである。
満ち足りていない何かに魅せられるということは、しばしば起こることだ。
Something、みたいな緩くてざっくりとした表現のほうが、閉じ込められたものを解放することがある。
The Beatles - Something with lyrics and video
このような空洞に光を感じ取れることができる感性は素晴らしい。
そのような感性をもったひとは沢山いるに違いないが、時代や空気や日常に埋もれてわからなくなってしまう。
だから、このように表現することのできるひとがいると嬉しくなるのだと思う。
( ↓ ) 大量消費文明の中にいながらにして射してくる一筋の光明を、僅かの瞬間に捉えたような音が美しい。(1:40過ぎ)
Living in the Material World