ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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Hope For The Future (未来への希望)

2014年10月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

なぜに72歳にもなるポールに「未来への希望」を与えてもらえるのか。(ポールの新曲、Destiny(運命)のテーマ)

「Hope for the future」のメロディをなぞっていく歌詩や弦のうねりに感じる恍惚、
ノアの箱舟に搭乗したとして、感じているうねりはこんな風ではないかと思えるほどだ。

We will build bridges up to the sky  我らは空に向かって橋を架け
Heavenly light surrounding you and I 天上の光が僕らを包み込む

Paul McCartney - Hope For The Future - 'Destiny' Video Game

『誰かに触れて、何かを感じる。それは私のなかにも同じカケラがあるということだ。
同じカケラが他者に共鳴しているということなのだ。』

田口ランディさんは女性なのだが、同じカケラがあるのでしょうか。
共鳴するところがずいぶんあります。
その行動力たるやすごいのですが、決して”馬鹿なエッセイスト気取り”ではない、彼女の視点には感じ入るところが多い。
オネストだ。そして、旅人というと松尾芭蕉みたいになってしまうが、
少しストレンジャーな心持ちも似ているような気がする。
私も大体において郷に入っていく立場のほうだから、
旅人というと聞こえはいいが、旅の自由と引き換えにする避けがたい代償のことは分かるような気がする。

ずいぶんといろんな場所を旅して、旅慣れた気分になっていた。
私はいつのまにかとても傲慢になっていたなあ、と思う。旅人の心得を忘れていた。
旅人は柔らかな心と体をもたねばならない。
郷に入れば郷に従い、主体性などみじんも感じられぬほど受け身でなければならない。
土地と人に対して謙虚でなければならない。
およそ人間が住んでいるあらゆる場所には、その場所独自の文化と価値観がある。
出されたものは食べねばならない。
その土地の風習、宗教、人間関係に干渉してはならない。
旅人の瞳はいつも子供のように澄んでいなければいけない。

まったく軟弱だなと思う。軽率だなと思う。
それでも、私はどうしようもなく、旅人でありたい。
罰当たりでも、死ぬまで旅を続けたい。遠くへ、近くへ。外へ、内へ。

この本で紹介されていた「マヤ文明 聖なる時間の書」の下り、
時間論にかかる現代科学の知見が既に古代マヤ人の考え方に織り込まれていたことに驚きました。

「マヤ暦が2012年に終わる」というので、預言のように、運命論的な採り上げ方をされているが、
マヤのシャーマンは本書の中で「運命は存在しない」と断言し、
未来には無数の選択肢があって、人間は行動することによって未来を選び取ることができると語っていると言う。

まるで、ポールの「New」に出てくる歌詞のようでもある。
(ポールの新作、そして栄光の11月がやって来る)

「ドン フェルミン(マヤのシャーマン)、あなたにとって時間とは何なのですか」
「時間とは空間の持つ可能性のことだ」
「それはどういう意味でしょうか」
「空間はそれ自体としてはもう変えようがない。ただ一つ残されている可能性が時間なのだよ」

マヤのシャーマンたちは口々に「時間はエネルギーである」と語るのだそうだ。
それは、「もし時間がなければ、ものは変化しない、動かない」ということであり、
時間や空間といったものにエネルギーを感じ、時間を「生命の瞬間の連続であり、生命の源である」と考えた。

「私が生きて変化するから時間が生じるのだ」という現代人的感覚とも違う。
(時間は流れない、世界が流れる - She's Leaving Home)
デカルトやニュートンの絶対時間でもなく、相対論の時空の概念を持っている。

田口ランディさんがうまいことを言っています。

類い稀なる天文知識と時間哲学を持った彼らが、その科学的叡智を決して人間存在から切り離すことがなかったことに感動してしまう。
生命も現象である、電気も現象である、その二つは本当に違うものなのか。
私たちは科学的な思考もできるけど、同時に超越的な存在について考えることもできる。
目に見えないもの、知覚できないものの存在を感じ、森羅万象に命を感じることができる。
そもそも科学とは「わからないこと」を明らかにするものであって、「わかること」を証明するためのものではない。
「わからない」が前提だったはずなのだ。
マヤの「科学(理性的叡智)」は、宇宙における人間的存在を包括するようなものであった。
そこでは人間と科学と倫理は調和していた。シャーマンであり科学者であることは矛盾しない。

西欧のダイナミックな歴史をつくり上げたもとになっていたのはキリストの磔刑像。
ヨーロッパやアメリカにおいて、政治を実行するひとたちの正義の源としてあったのがキリスト教であり、
キリスト教はあまたの音楽や絵画、あらゆる西洋芸術のインスピレーションの源泉でもあった。

(八重の桜 ~ 2013年の磔刑(たっけい)
「わからないこと」、エビデンスがないものを、科学的でなく宗教めいたものと否定してかかる態度は
むしろ科学的でなく、単なる思考停止だと思うのですが、
一方で内田樹先生が言っていたように、
『あちらの世界のことを「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。』

スピリチュアルというと、なんだか宗教がかってくるし、多くの人はそれを嫌う。
エビデンスに依拠しない「科学」、「理性的叡智」と呼んでみたら、もっと知りたい、というひとが出てくるかもしれない。
(もっといいネーミングがあるといいのに。)

たぶん人は、好むと好まざるにかかわらず、自分の知覚や感受性によって規定された世界に閉じ込められている。
気がつくとその世界にいるので、それがすべてだと思ってしまう。
だけど、実は世界は無数にある。
ただ、一つを認識したら同時に複数の世界を認識することはできない。
人間は一つの認識しか持てない。なぜかそのようにプログラミングされている。

世界の成り立ちは、過去とのアクセス方法、未来とのアクセス方法によって異なる。
今まさに生きている世界は、過去と未来の間にあって、過去とどんな配線で接続されているかで、
今ここの世界の成り立ちは人によってすごく違う。

マヤ人のいう時間のエネルギーとは、 過去や未来との接続の仕方によって生じる電位差のようなものなのか。
このフォースについて学びたい。

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2 コメント

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ランディさま (hika)
2014-10-15 10:42:07
読まれましたか!!

表層部分だけシャらっと読み飛ばす私なんかと違って、
そのスピリチュアルな部分の読解力に脱帽です。
ランディ女史が今の時代を生きる若い世代に人気があるのはまさにそこの部分らしいですね。

最初に引用された文章は私もいたく共感し、書き写してありました(笑)

子どものような瞳で旅を続けたいですね♪
人生もまた旅ですから。
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Re:ランディさま (lifelongpassion)
2014-10-16 06:56:17
ありがとうございますー。
ランディさんに出会えたのはhikaさんのおかげです。
ランディ本をamazonで注文してしまいました。(なぜか小説ものではないですが。)
読んでおしまい、ってならないインスピレーションがありそうで楽しみです。
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