映画ファンにかぎらず、同世代の男子に必ず聞くこと。
好きなAV女優は誰かという質問と、
スライとシュワ氏、どちらが好きかという選択質問。
スライとはシルベスター・スタローンのあだ名、
アーノルド・シュワルツェネッガーをシュワ氏と表記するのは、90年代以降の映画雑誌の常識? っぽくなっている。
肉体派という「広い」括りだと、李小龍ブルース・リーや成龍ジャッキー・チェン、なかには狙って? チャック・ノリスというものまで居るからテーマが逸れてしまう、
要は、器用な男か不器用な男か、親近感を抱くのはどっち? という質問なのである。
大統領まで狙っていそうなシュワ氏は、確かに器用な俳優という評価を受けている。
コメディに挑戦しても「そこそこ」成功を収め、器用だからこそ州知事まで務められたのだろうから。
対してスライはアクション一筋、いかにも不器用である。
コメディに浮気したこともあったが、誰も笑ってくれなかったので「なかったこと」にしてしまった。
スライとシュワ氏、どちらが好きか―じつは20歳のころから続けている質問なのだが、結果は7割でスライの勝ち。
なんとなく、納得の結果である。
もちろん自分も、スライに一票。
シュワ氏にも『ターミネーター』シリーズ(84~)という印籠があるが、
スライにはもっと強力な『ロッキー』のシリーズ(76~2006)がある。
だが、このシリーズを観返す度に「ひょっとしてスライって、えらく器用?」という思いを強くするのであった。
カーレーサーの世界を描いた『ドリヴン』(2001)で、先輩ドライバーのスライが新人ドライバーに「もっと、頭を使え」と説教するシーンがある。
たったこれだけの台詞でも、「お前がいうな」などと笑いのネタにされてしまう―これがスライに対する一般的な評価だが、思えば『ロッキー』の脚本はスライひとりが手がけているのだ。
脚本は、物語の筋よりもキャラクターが大事といわれている。
脚本を書いていて自分も思う、キャラクターさえしっかりしていれば、彼ら彼女らが「勝手に」動き出してくれるものなのだ、、、と。
驚くべきことに『ロッキー』の脚本は、その点を完璧にクリアしているのである。
なにしろ、不必要なキャラクターがひとりも居ない。
借金取りとしてロッキーを「雇用」するヤクザのボスがいい、
エイドリアンを「頭が足りない」といって馬鹿にするボスの運転手もいい、
ほとんど登場しない街の神父でさえ素晴らしい。
個人的に最も好きなキャラクターは、エイドリアンの兄ポーリー。
「負け犬、大集合」な群像劇のなかで最も輝くキング・オブ・負け犬のキャラクターだが、
ドラゴ戦に臨むロッキーに向かって「生まれ変わるとしたら、お前になりてぇよ」と発するポーリーにグッときた男子は多いことだろう。
体育でしか輝けなかったはずのクラスメイトが、学力テストで1番を取る―これと同じ衝撃が、『ロッキー』の脚本にはある。
あぁそうか、スライは充分に器用な男なんだ、、、ということが分かっても、
それでもシュワ氏よりスライを圧倒的に支持したくなるのは、たぶん弱者・負け犬を見つめる視点にあるのだと思う。
第一作目は、アポロと戦って判定で敗れる。
しかし最終ラウンドまで立ち続けたことでゴロツキでないことが証明され、エイドリアンと強く結ばれてハッピーエンド。
第三作目以降、どんどん美人になっていくエイドリアンだが、一作目と二作目ではキツイ眼鏡も絶妙な小道具として機能し、「たいへん」不細工に見える。
そこがいい。すごく、いい。
働くところが「ぜんぜん売れていなさそうに見える」ペットショップというのが、また抜群な設定である。
自分にとっての最高傑作は、79年に発表された第二作目。
ロッキーがアポロに勝ったからではない、
ニワトリを使った「トンデモ」なトレーニングシーンがあるからであり、
また、エイドリアンが難産でたいへん苦しむからである。
ひどく地味で不細工、しかも難産―ひどいことを書くようだが、この哀しき設定ゆえに、意識を取り戻したエイドリアンが力強く発する「win!」(=勝って!)に強烈なリアリティを感じることが出来た。
筋肉礼讃のスポ根映画―と勝手に解釈し観ようとしないものは、スライに謝罪してほしい。
『ロッキー』は、負け犬たちが放つ自尊心のための闘争の物語、なのだった。
冒頭に戻る。
もし「肉体派俳優で、誰が好き?」という質問に変えたならば、自分はスライは選ばない。
即答で成龍、ジャッキー・チェンと答える。
映画への扉を開けてくれたのが、成龍だったからである。
つづく。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『成龍→チャップリン ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.4~』
好きなAV女優は誰かという質問と、
スライとシュワ氏、どちらが好きかという選択質問。
スライとはシルベスター・スタローンのあだ名、
アーノルド・シュワルツェネッガーをシュワ氏と表記するのは、90年代以降の映画雑誌の常識? っぽくなっている。
肉体派という「広い」括りだと、李小龍ブルース・リーや成龍ジャッキー・チェン、なかには狙って? チャック・ノリスというものまで居るからテーマが逸れてしまう、
要は、器用な男か不器用な男か、親近感を抱くのはどっち? という質問なのである。
大統領まで狙っていそうなシュワ氏は、確かに器用な俳優という評価を受けている。
コメディに挑戦しても「そこそこ」成功を収め、器用だからこそ州知事まで務められたのだろうから。
対してスライはアクション一筋、いかにも不器用である。
コメディに浮気したこともあったが、誰も笑ってくれなかったので「なかったこと」にしてしまった。
スライとシュワ氏、どちらが好きか―じつは20歳のころから続けている質問なのだが、結果は7割でスライの勝ち。
なんとなく、納得の結果である。
もちろん自分も、スライに一票。
シュワ氏にも『ターミネーター』シリーズ(84~)という印籠があるが、
スライにはもっと強力な『ロッキー』のシリーズ(76~2006)がある。
だが、このシリーズを観返す度に「ひょっとしてスライって、えらく器用?」という思いを強くするのであった。
カーレーサーの世界を描いた『ドリヴン』(2001)で、先輩ドライバーのスライが新人ドライバーに「もっと、頭を使え」と説教するシーンがある。
たったこれだけの台詞でも、「お前がいうな」などと笑いのネタにされてしまう―これがスライに対する一般的な評価だが、思えば『ロッキー』の脚本はスライひとりが手がけているのだ。
脚本は、物語の筋よりもキャラクターが大事といわれている。
脚本を書いていて自分も思う、キャラクターさえしっかりしていれば、彼ら彼女らが「勝手に」動き出してくれるものなのだ、、、と。
驚くべきことに『ロッキー』の脚本は、その点を完璧にクリアしているのである。
なにしろ、不必要なキャラクターがひとりも居ない。
借金取りとしてロッキーを「雇用」するヤクザのボスがいい、
エイドリアンを「頭が足りない」といって馬鹿にするボスの運転手もいい、
ほとんど登場しない街の神父でさえ素晴らしい。
個人的に最も好きなキャラクターは、エイドリアンの兄ポーリー。
「負け犬、大集合」な群像劇のなかで最も輝くキング・オブ・負け犬のキャラクターだが、
ドラゴ戦に臨むロッキーに向かって「生まれ変わるとしたら、お前になりてぇよ」と発するポーリーにグッときた男子は多いことだろう。
体育でしか輝けなかったはずのクラスメイトが、学力テストで1番を取る―これと同じ衝撃が、『ロッキー』の脚本にはある。
あぁそうか、スライは充分に器用な男なんだ、、、ということが分かっても、
それでもシュワ氏よりスライを圧倒的に支持したくなるのは、たぶん弱者・負け犬を見つめる視点にあるのだと思う。
第一作目は、アポロと戦って判定で敗れる。
しかし最終ラウンドまで立ち続けたことでゴロツキでないことが証明され、エイドリアンと強く結ばれてハッピーエンド。
第三作目以降、どんどん美人になっていくエイドリアンだが、一作目と二作目ではキツイ眼鏡も絶妙な小道具として機能し、「たいへん」不細工に見える。
そこがいい。すごく、いい。
働くところが「ぜんぜん売れていなさそうに見える」ペットショップというのが、また抜群な設定である。
自分にとっての最高傑作は、79年に発表された第二作目。
ロッキーがアポロに勝ったからではない、
ニワトリを使った「トンデモ」なトレーニングシーンがあるからであり、
また、エイドリアンが難産でたいへん苦しむからである。
ひどく地味で不細工、しかも難産―ひどいことを書くようだが、この哀しき設定ゆえに、意識を取り戻したエイドリアンが力強く発する「win!」(=勝って!)に強烈なリアリティを感じることが出来た。
筋肉礼讃のスポ根映画―と勝手に解釈し観ようとしないものは、スライに謝罪してほしい。
『ロッキー』は、負け犬たちが放つ自尊心のための闘争の物語、なのだった。
冒頭に戻る。
もし「肉体派俳優で、誰が好き?」という質問に変えたならば、自分はスライは選ばない。
即答で成龍、ジャッキー・チェンと答える。
映画への扉を開けてくれたのが、成龍だったからである。
つづく。
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