Cape Fear、in JAPAN

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チャップリン→オリバー・ストーン ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.5~

2012-03-05 00:05:00 | コラム
ロリコンではあるが、社会的に「ぎりぎり」許される範囲のロリコン―であると、ジャブのつもりで自己紹介することが多い。

なかには「引く」ひとも居るが、だから、許される範囲だっての!!

さすがに小学生のスクール水着あたりでハァハァいったりはしない。

どういうことかというと、
たとえばフィンスイマーの藤巻紗月を応援していたり、

AV女優では、つぼみが好きだったり、

まぁ、そんな程度? である。


ほとんど全側面について言及されていると思われる、偉大過ぎる喜劇俳優チャップリン。
だから敢えて自分は、なんとなく言及しづらいと「されている」ロリコン疑惑について書くことから始めたい。

なぜ「されている」のかというと、それはもう、その嗜好が「ちょっと、まずいんじゃないか」と思われているから―に尽きる。

同性愛者であることは、もはや恥ずかしいことではなくなった。
厳密にいえば社会生活において障壁になることもあるだろうが、それでもロリコンやネクロフィリア(=屍体性愛)に比べれば「その権利?」は認められている。

ロリコンが「まずいんじゃないか」と思われるのは、犯罪と直結してしまうから。
しかしチャップリンも自分と同様に、社会的に「ぎりぎり」許される範囲のロリコン、、、だったのだと思う。

もちろん本人に聞いたわけではないのだから、憶測の域を出ない。出ないが、同種の人間? として、なんとなく分かる。

ただ現代よりも時代がおおらかだったという背景もあるだろう、
チャップリン自身はその嗜好を隠そうともしていなかったのではないか、そんな風に思う。

たとえば『モダン・タイムス』(36)で擬似同棲を始めるパートナーは、明らかに少女という設定のポーレット・ゴダードである。
浮浪者(「元」労働者)チャーリーの年齢は定かではないが、チャップリンこのとき40代後半。
ほとんど親子の年の差だが、ボロ家で築くのは親子関係ではなく「どう見ても」夫婦関係である。

『街の灯』(31)だって、そう。
盲目のヒロインを演じるヴァージニア・チェリルは、残念ながら? オバサン顔ではあるが、設定としては10代後半~20代前半、、、だと解釈出来る。


私生活の女の趣味が、映画のキャスティングに「そのまま」反映されたチャップリン、
赤狩りの時代には道徳面から非難を受けたこともあったが、それでも市井の民は偉大なる喜劇俳優を支持し続けた。
ここらへんが自分とのちがい―当たり前だ、馬鹿―だが、多感な10代だったことも関係があるのだろう、自分はサイレント時代のチャップリンではなく、
トーキー時代、つまり後期のチャップリン映画にこころを「強く」動かされた。

身体ではなく、言語で―パントマイムの芸を誇りにしていた俳優が、敢えて言語を手に入れる。
そうまでして言語を欲した理由は、同世代のヒトラーに闘いを挑むためだった。

こうして創作言語「ヒンケル語」は生まれ、『独裁者』(40)が完成したのである。

映画としては掟破り? の7分間に及ぶ大演説を展開したチャップリンは、ある意味で一線を越えてしまい、もう山高帽をかぶることが出来なくなった。
つづく『殺人狂時代』(47)では「大量殺人なら、国がやっている」とダイレクトな戦争批判を繰り広げ、
原点回帰とも捉えられる『ライムライト』(52)でも、お馴染みの格好では現れなかったのだった。


チャップリンの時代では概ね歓迎された大演説も、現代(の映画)ではなかなか通用しない。
マイケル・ムーアのドキュメンタリーやオリバー・ストーンの社会派映画がそれにあたるはずだが、
彼らは「映画のカメラを拡声器のように扱う」「政治家になったほうがいい」と揶揄されることが多い。

しかし自分は後期のチャップリン映画で「映画の可能性」に気づき、
それを実践/実戦しているのがオリバー・ストーンだと捉え、社会派こそが映画であると認識するようになっていく。

『プラトーン』(86)発表から、3年後のことだった。






つづく。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

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明日のコラムは・・・

『オリバー・ストーン→60・70年代症候群 ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.6~』


コメント (3)
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