Cape Fear、in JAPAN

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キャリー→スタローン ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.2~

2012-03-02 04:49:30 | コラム
「ムチャクチャだっ! 狂ってる!! ついていけない」

『戦場にかける橋』(57)のラストではないけれど、
うちの父親が映画『キャリー』(76)を観たときの感想である。

確かに、そういわれればそう。

初潮を知らなかったことでクラスメイトに馬鹿にされたり、近所の子どもにバケモノ扱いされるのは分かる。
しかし後半、自分たちの手で実際に殺めた豚から取った血を集めに集め、
それを、ヒロインにとって最高の舞台で「ぶっかけ」る・・・という手の込んだ荒っぽいイジメは、ほとんど犯罪の世界なのだった。

むごいのは、葬式ごっこか、あるいはキャリーのほうか―もう、そんなレベルの話である。

実際、首謀者たちは笑っているが、そのボーイフレンドは呆れるというか「引いて」いる。

しかし。

耐え難きを、耐え。
忍び難きを、忍び。

たまりにたまったものが最後の最後で爆発することによって生み出されるカタルシスというものは、映画が持つ本来の魅力であったはず。
ペキンパーの『わらの犬』(71)は、その構造をネクストレベルにまで引き上げたが、この作品に足りなかった感情面をフル装備させたことによって『キャリー』は永遠となった。

軽く驚くエンドショットは、単なるオマケ。
真の見せ場はプロムナイトの全ショットであり、キャリーが幸福の絶頂を味わう瞬間から、怒りの権化へと変貌し復讐を遂げるまでの惨劇―敢えていうが、監督デ・パルマは、これが撮りたいがためにほかのショットを「我慢して」演出しているように思える、、、ほどなのだった。

居間の21インチテレビでビデオ鑑賞した当時、自分は学校でいじめを受けていた。
という背景は無関係ではないだろう、
いじめへの対応が「殺戮」だなんていう映画は、初めてである。
そして、女子のキャラクターに同化したのも初めてなのだった。

たまたまテキネシス(超能力)という才能を持っていたキャリーは、怒りが頂点に達したこのとき、初めて自分の最大限の能力を発揮し、笑ったものも笑わなかったものも「誰もが等しく」惨殺される。


殺せ、やっちまえ、頑張れキャリー!

あぁ、なんて気持ちいいのだろう!!


数年後―自死を肯定的に描いた作品で知られる漫画家、山田花子が飛び降りた。

その前から彼女を知っていたこと、そして、たまたま「現場」が「近所」であったことから、花を供えにいったことがある。

ヘタウマともいえぬ彼女の漫画は読み切るには気力を要するが、飛び降りて血を流す主人公を「幸福」「自由」として捉えたヒトコマにハッとする自分が居た。

花子は『キャリー』を観ていたのかな、やはり自身と同化したのだろうか、、、などと考えていたら、思わず涙が溢れてきた。


ところで『キャリー』には、青春スター、あるいはスターの卵が多数出演している。
ほとんどはオーディションによって選出され、
主演シシー・スペイセクが、どうしてもキャリーを演じたくて「長い髪に、オイルを塗りまくって」不気味な雰囲気を演出してきた―というのは有名な話だが、
その他の出演者が『スター・ウォーズ』オーディションの落選組である、、、ことは、あまり知られていない。

なんという、豪華に過ぎる背景。

『スター・ウォーズ』は翌77年に発表、大ヒットを記録したことはここに記すまでもない。


もう少しだけ、76年にこだわってみる。

モハメド・アリが神話となったキンシャサの奇跡は、自分が生まれた74年のこと。
そのころ、売れないがためにポルノ男優としても活動していたシルベスター・スタローンは、アリの試合からヒントをもらい3日間で脚本を書き上げる。

スタジオは脚本だけを買い取ろうとしたが、スタローンは「自分が主演で」という条件を絶対に譲らなかった。

こうして『ロッキー』は生まれた。76年の出来事である。






つづく。

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明日のコラムは・・・

『スタローン→成龍 ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.3~』


コメント (2)
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