現在は自分大好き人間、
しかし10代前半の自分は、自分のことが嫌いだった。大嫌い。
そこに存在しているだけで、周囲の温度を上げる。汗をかく。左手には瓶のサイダー、右手にはポテトチップス―典型的な、肥満児だったからだ。
スーパーLサイズのGジャンに、毛玉のいっぱいついたスウェットが泣かせる。
青だからドラえもんに見えるが、
こういう「伸び~~~る」服しか着れなかったのだからしょうがない、とにかく動くことが嫌いで、年がら年中食べていた。
現在の自分は年がら年中「自慰」をしており、「入れる」から「出す」に変化しただけで、どちらもイタい感じではある。
ではあるが、少なくとも「ひとの食欲を殺す見た目」(=映画『セブン』(95)で、「ド」肥満男を殺したジョン・ドゥは刑事にこういっていた)ではなくなった。
肥満が罪とは思っていない。
これは自意識の問題で、本人がそのままでいいと思えば、それでいいのだろう。
自分は、そう思わなかった・・・というだけの話。
「小錦」を自称し、自虐的な笑いを取ることにウンザリしていた。
そういう自虐傾向から「コイツには、なにをやってもいいんだ」みたいな空気が出来て、いじめの対象にもなった。
さらに「オトシゴロ」であり、早いとこ童貞を捨てたかった。
そういうことが重なって、
しかも努力しているところを他者に見せたくないという理由から、高校1年の夏休み40日間を使ってオリジナルの減量を試みた。
(1)1日1食、トマトか豆腐のみを食す。
(2)身体全体にサランラップを巻き、炎天下を走る。
(3)ひたすら自慰をする。最低でも5回を超えることを課したが、気持ちいいものだから平均7回は出来た。
その結果、110㎏の体重が70㎏以下となる。
40日間で約40㎏の減量に成功、1日1㎏落ちた計算になり、つまり、小さな女子ひとりが神隠しに遭った? ようなものである。
運動が好きになり、いじめから脱し、そして童貞を捨てるのも、それから数ヶ月後のことだった。
「見た目」というテーマは、ヒトがこころを宿して以降に永続されてきた最大のテーマのひとつだろう。
「見た目じゃないよ」というひとも居れば、「見た目が肝心」というひとも居る。
本音と建前、理想などが骨がらみになっている感があるが、印象という点では見た目が最重要となるのは事実。
気にし過ぎるのもどうかと思うが、
まったく気にしないというわけにもいかない。
バランス、バランスかなぁ。
ところで古今東西の映画監督のなかで、いちばんの博愛・平等主義者は誰だと思う?
チャップリンでも、今井正でもない、
映画ファンのなかには「え?」というひとも居るかもしれないが、
ピーター&ボビー・ファレリー兄弟、なのではないか。
身障者を笑う、あんな下品なヤツらが?
そう。
嘘だと思うなら、『愛しのローズマリー』(2001)を観返してほしい。
メンクイの醜男が主人公のコメディだが、内面の美しい女性が「(見た目まで)美しく見える」という催眠術をかけられ、100㎏を超える女性に一目惚れしてしまう。
周囲の「見た目」とのギャップが笑える前半から一転、
後半に入ると、火傷によって「見た目を壊された」子どもたちが登場し、その子たちと戯れるヒロインを通じ「見た目って、なにかね」と問いかけてくる構造になっているのだ。
笑いを十字架から解放させようとするファレリーは、博愛主義者でもあったのか!!
と、打たれた記憶が鮮烈に残っている。
そういう意味で期待するのは、沢尻エリカが(きっと)脱いでいる新作映画『ヘルタースケルター』だ。
原作者・岡崎京子の状態も気になる―交通事故でリハビリ中、、、とされているが、事故はもう、何年も前のこと―が、
この物語は元「デブ専」風俗嬢であり、全身整形によって生まれ変わった「美女」を主人公にしているのだから。
※『ヘルタースケルター』公式サイト
つづく。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『むかし盗人、いまは…→ホラ吹きと誇大妄想 ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.19~』
しかし10代前半の自分は、自分のことが嫌いだった。大嫌い。
そこに存在しているだけで、周囲の温度を上げる。汗をかく。左手には瓶のサイダー、右手にはポテトチップス―典型的な、肥満児だったからだ。
スーパーLサイズのGジャンに、毛玉のいっぱいついたスウェットが泣かせる。
青だからドラえもんに見えるが、
こういう「伸び~~~る」服しか着れなかったのだからしょうがない、とにかく動くことが嫌いで、年がら年中食べていた。
現在の自分は年がら年中「自慰」をしており、「入れる」から「出す」に変化しただけで、どちらもイタい感じではある。
ではあるが、少なくとも「ひとの食欲を殺す見た目」(=映画『セブン』(95)で、「ド」肥満男を殺したジョン・ドゥは刑事にこういっていた)ではなくなった。
肥満が罪とは思っていない。
これは自意識の問題で、本人がそのままでいいと思えば、それでいいのだろう。
自分は、そう思わなかった・・・というだけの話。
「小錦」を自称し、自虐的な笑いを取ることにウンザリしていた。
そういう自虐傾向から「コイツには、なにをやってもいいんだ」みたいな空気が出来て、いじめの対象にもなった。
さらに「オトシゴロ」であり、早いとこ童貞を捨てたかった。
そういうことが重なって、
しかも努力しているところを他者に見せたくないという理由から、高校1年の夏休み40日間を使ってオリジナルの減量を試みた。
(1)1日1食、トマトか豆腐のみを食す。
(2)身体全体にサランラップを巻き、炎天下を走る。
(3)ひたすら自慰をする。最低でも5回を超えることを課したが、気持ちいいものだから平均7回は出来た。
その結果、110㎏の体重が70㎏以下となる。
40日間で約40㎏の減量に成功、1日1㎏落ちた計算になり、つまり、小さな女子ひとりが神隠しに遭った? ようなものである。
運動が好きになり、いじめから脱し、そして童貞を捨てるのも、それから数ヶ月後のことだった。
「見た目」というテーマは、ヒトがこころを宿して以降に永続されてきた最大のテーマのひとつだろう。
「見た目じゃないよ」というひとも居れば、「見た目が肝心」というひとも居る。
本音と建前、理想などが骨がらみになっている感があるが、印象という点では見た目が最重要となるのは事実。
気にし過ぎるのもどうかと思うが、
まったく気にしないというわけにもいかない。
バランス、バランスかなぁ。
ところで古今東西の映画監督のなかで、いちばんの博愛・平等主義者は誰だと思う?
チャップリンでも、今井正でもない、
映画ファンのなかには「え?」というひとも居るかもしれないが、
ピーター&ボビー・ファレリー兄弟、なのではないか。
身障者を笑う、あんな下品なヤツらが?
そう。
嘘だと思うなら、『愛しのローズマリー』(2001)を観返してほしい。
メンクイの醜男が主人公のコメディだが、内面の美しい女性が「(見た目まで)美しく見える」という催眠術をかけられ、100㎏を超える女性に一目惚れしてしまう。
周囲の「見た目」とのギャップが笑える前半から一転、
後半に入ると、火傷によって「見た目を壊された」子どもたちが登場し、その子たちと戯れるヒロインを通じ「見た目って、なにかね」と問いかけてくる構造になっているのだ。
笑いを十字架から解放させようとするファレリーは、博愛主義者でもあったのか!!
と、打たれた記憶が鮮烈に残っている。
そういう意味で期待するのは、沢尻エリカが(きっと)脱いでいる新作映画『ヘルタースケルター』だ。
原作者・岡崎京子の状態も気になる―交通事故でリハビリ中、、、とされているが、事故はもう、何年も前のこと―が、
この物語は元「デブ専」風俗嬢であり、全身整形によって生まれ変わった「美女」を主人公にしているのだから。
※『ヘルタースケルター』公式サイト
つづく。
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