距離感というか、単に感覚、、、といったらいいか。
ふだん徒歩・チャリで移動しているひとと、車・電車で移動しているひととでは、これほどまで距離に対する感覚がちがうのか―と痛感したことは、一度や二度ではない。
たとえば。
町田の自宅から川崎のあたりまで、よくチャリで移動するのだが・・・
信じられん。
おかしい。
どうかしている。
気が触れている。
・・・などなど、散々ないわれようである。
まぁ実際に気が触れているので間違ってはいないが、2~3時間程度のチャリ運転でヘトヘトになる―と想像しているひとは、
(1)実際にそのくらい漕いだことがないから、じつはたいして疲れないということを知らない。
(2)漕いだことがあったとしても、乗りかたが間違っていたり、極端に風が強い日だったり、上りの坂道ばかりのルートだったり、、、で、ヘトヘトになったということなのだろう。
二言目には「文明の利器があるのだから、、、」などというが、チャリだって文明の利器じゃないか充分に。
つまり、自転車というものをきちんと理解していないわけだ。
自分の身体にあったチャリを選んで、きっちりとメンテナンスを繰り返していれば、(頑張って)10時間くらい漕げるはず成人男子であれば。
要は体力ではなく、自身とチャリの適正・相性ということ。
もっと原始的な行為、あるくこと―についても、随分と感覚がちがう。
伊能忠敬には負けるが、歩くのも好きだ。
少し極端な例だが・・・
ちょっとしたスランプに陥った25歳の夏―なんとなく「そうしたくなって」町田から江ノ島まで歩いた。
気持ちよかったが、誰も理解してくれなかった。
現在でも泥酔時を除き、歩くのを苦だと思ったことはない。(ほとんどのひとは、そうでしょう)
怪我で左脚を壊し、松葉杖を使っていたときも同様。
これまた極端な例だとは思うが、車が好きという理由ではなく「とにかく歩くのが嫌いだから」車に乗っている、という知り合いが居る。
同年代。妻子あり。
いわゆるデブチンというわけではない。
しかも、元高校野球児だった・・・にも関わらず、徒歩しか移動手段がないとき、ただそれだけの理由で不機嫌になる。
こっちは歩きたいから「歩いて帰るよ」といっているのに、強引に、まるで拉致するかのように車に乗せて送ろうとする。
親切心というより「この世に、歩くことが好きなヤツなんか居ない。みんな、仕方なく歩いているんだ」という解釈で、そういう行動を起こす、、、ように見える。
自分とソイツの中間あたりがいいのだろうが、
子ども達の体型が「スタイル抜群」と「そうでない」子に二極化し、真ん中が少なくなっている現象―と同様に、車好きは徹底して車で移動し、チャリ・徒歩好きは徹底して足を使っているのかもしれない。
ふと、映画『ウォーリー』(2008)の未来世界を想起した。
大人たちの筋肉は劣化し、歩くことにも不自由していたっけ。
自分のほうが正しい―なんて思わないけれど、桜の季節なわけだ。
車に乗ったまま眺めることも可能だが、桜を身体全体で感じるには、チャリや徒歩が最適なんじゃないか。
それでも、まだ日本は救いがあると思う。
じつは故郷の群馬は館林で、ある時期、実験的にドライブスルーのコンビニが出来たんだ。
ファストフードみたいに、弁当や飲料だけでなく、文具や雑誌も車を降りずに購入出来る―という、超合理的? な米国産システム。
これが、ものの見事に浸透せず、あっという間に潰れた。
もし浸透していたら、街で歩行者を見かけることが少なくなっていた、、、かもしれない。
ちなみにトップ画像は、映画『恋人までの距離(ディスタンス)』(95)。
ヒロインのジュリー・デルピーは淡白な顔をしているが、たぶん性的に激しい? と思うので好きだ。
そいでもって動画は、アルフィーの『星空のディスタンス』。
ともに「距離」とかけただけで、もちろん他意はない。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(1)』
ふだん徒歩・チャリで移動しているひとと、車・電車で移動しているひととでは、これほどまで距離に対する感覚がちがうのか―と痛感したことは、一度や二度ではない。
たとえば。
町田の自宅から川崎のあたりまで、よくチャリで移動するのだが・・・
信じられん。
おかしい。
どうかしている。
気が触れている。
・・・などなど、散々ないわれようである。
まぁ実際に気が触れているので間違ってはいないが、2~3時間程度のチャリ運転でヘトヘトになる―と想像しているひとは、
(1)実際にそのくらい漕いだことがないから、じつはたいして疲れないということを知らない。
(2)漕いだことがあったとしても、乗りかたが間違っていたり、極端に風が強い日だったり、上りの坂道ばかりのルートだったり、、、で、ヘトヘトになったということなのだろう。
二言目には「文明の利器があるのだから、、、」などというが、チャリだって文明の利器じゃないか充分に。
つまり、自転車というものをきちんと理解していないわけだ。
自分の身体にあったチャリを選んで、きっちりとメンテナンスを繰り返していれば、(頑張って)10時間くらい漕げるはず成人男子であれば。
要は体力ではなく、自身とチャリの適正・相性ということ。
もっと原始的な行為、あるくこと―についても、随分と感覚がちがう。
伊能忠敬には負けるが、歩くのも好きだ。
少し極端な例だが・・・
ちょっとしたスランプに陥った25歳の夏―なんとなく「そうしたくなって」町田から江ノ島まで歩いた。
気持ちよかったが、誰も理解してくれなかった。
現在でも泥酔時を除き、歩くのを苦だと思ったことはない。(ほとんどのひとは、そうでしょう)
怪我で左脚を壊し、松葉杖を使っていたときも同様。
これまた極端な例だとは思うが、車が好きという理由ではなく「とにかく歩くのが嫌いだから」車に乗っている、という知り合いが居る。
同年代。妻子あり。
いわゆるデブチンというわけではない。
しかも、元高校野球児だった・・・にも関わらず、徒歩しか移動手段がないとき、ただそれだけの理由で不機嫌になる。
こっちは歩きたいから「歩いて帰るよ」といっているのに、強引に、まるで拉致するかのように車に乗せて送ろうとする。
親切心というより「この世に、歩くことが好きなヤツなんか居ない。みんな、仕方なく歩いているんだ」という解釈で、そういう行動を起こす、、、ように見える。
自分とソイツの中間あたりがいいのだろうが、
子ども達の体型が「スタイル抜群」と「そうでない」子に二極化し、真ん中が少なくなっている現象―と同様に、車好きは徹底して車で移動し、チャリ・徒歩好きは徹底して足を使っているのかもしれない。
ふと、映画『ウォーリー』(2008)の未来世界を想起した。
大人たちの筋肉は劣化し、歩くことにも不自由していたっけ。
自分のほうが正しい―なんて思わないけれど、桜の季節なわけだ。
車に乗ったまま眺めることも可能だが、桜を身体全体で感じるには、チャリや徒歩が最適なんじゃないか。
それでも、まだ日本は救いがあると思う。
じつは故郷の群馬は館林で、ある時期、実験的にドライブスルーのコンビニが出来たんだ。
ファストフードみたいに、弁当や飲料だけでなく、文具や雑誌も車を降りずに購入出来る―という、超合理的? な米国産システム。
これが、ものの見事に浸透せず、あっという間に潰れた。
もし浸透していたら、街で歩行者を見かけることが少なくなっていた、、、かもしれない。
ちなみにトップ画像は、映画『恋人までの距離(ディスタンス)』(95)。
ヒロインのジュリー・デルピーは淡白な顔をしているが、たぶん性的に激しい? と思うので好きだ。
そいでもって動画は、アルフィーの『星空のディスタンス』。
ともに「距離」とかけただけで、もちろん他意はない。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(1)』