第19部「コーエン兄弟の物語」~第4章~
「原作では老保安官のモノローグが随所に挿入され、ほとんど主役の語り部的存在となっているが、映画の方ではこの保安官の描写はあまり目立たず、あくまでシガーの存在感がより強烈に目立つように描かれている」
「きっとコーエン兄弟は、シガーという存在を強調して描くことで、<世界の外部の闇>を映画全土に、原作以上に充満させたかったのだろう」
「この映画がこれまでのコーエン兄弟の作品と比べて一番異彩を放っているところはそこである」(批評家・大口和久、『ノーカントリー』を論じる)
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前章で「コーエン兄弟には一貫性がない」と結論づけたが、ほとんどの作品に「笑い」が宿っている―この点だけは一貫性があるといってもいい、、、ような気がする。
スラップスティックな笑いがあれば、ひとを喰ったような笑い、シニカルな笑い、批評性に富んだ笑いもある。
クールな手触りの『バーバー』(2001)でさえ笑いは生きている。ほんの少しの、ニヤリとさせるもの、、、ではあるが。
ただ、オスカー受賞作『ノーカントリー』(2007)には笑いは存在しない。
1ミクロンたりとも、笑えない。
これは物語の性質上、笑いは必要がない、もっといえば「笑いが邪魔になる」と考えたからだと思う。
原題はコーマック・マッカーシーの原作と同様に、『NO COUNTRY FOR OLD MEN』。
邦訳本では『血と暴力の国』とされているが、くだけた表現にすれば『ジジイに住むところはない』となるか。
日本版の予告編でも保安官役のトミー・リー・ジョーンズがいっている、「最近の犯罪には、ついていけない…」と。
麻薬の取引がおこなわれたであろう数時間後の、テキサスの荒野―そこには複数の死体とともに、200万ドルの大金が残されていた。
主人公モス(ジョシュ・ブローリン)は大金を持ってその場を離れ、静かな日常が戻ってくるまで逃亡することを決意する。
だが標的が死ぬまで絶対に追跡をあきらめない男、アントン・シガーが動き出し・・・。
シガーは殺さなくともいいものまで殺す。
だから彼は行く先々で死体を作る。
その凄惨な現場を目の当たりにした保安官―原題『ジジイに住むところはない』は、おそらく彼の思いをことばにしたものだろう。
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『ノーカントリー』は、ジョージ・クルーニー&キャサリン・ゼタ=ジョーンズという二大スターを起用した『ディボース・ショウ』(2003)、トム・ハンクスを起用した『レディ・キラーズ』(2004)のあとに制作されている。
メジャー資本で撮った前の2作はそれなりにヒットはしたが、ノン・クレジットで鑑賞したとするならば、ひょっとすると映画通でもコーエン兄弟によるものだと気づかないかもしれない。
そのくらい没個性といったらいいのか、笑いはふんだんにまぶされているにも関わらず、「コーエン兄弟の映画を観る愉しみ」を感じられない・感じさせない創りになっていた。(とくに、『ディボース・ショウ』を褒める批評家は皆無に近かった)
一貫性が―といいたくなるが、いやいやだから、この兄弟監督にはそれがないはず。
一貫性云々は無関係、スターのために「ただただ」職業監督に徹した、そう結んだほうが正しいのかもしれない。
けれども職業監督によるストレスは生じた、スタジオに気に入られるように撮ったのに評判も芳しくない、そういうモヤモヤを発散させたのが『ノーカントリー』だったような気がする。
笑いはもう充分だ、とことんシビアな視点でこの世界を見つめてやろうじゃないか―痛快なのは、現代米国を「チクリ」どころか「グサグサ」と刺すような物語でオスカーを取ってしまうところ。
好きは大好き、嫌いは大嫌い―たぶん、米国におけるコーエン兄弟の評価はそんなところなのではないか。
古きよき米国を絶対に描かない兄弟監督のことを「どうも虫が好かん」と思っているアカデミー会員も「絶対に」居るはずで、
『ノーカントリー』の出来を認めつつ、テーマ性にも共感しつつ、それでもオスカー受賞は気に入らないと憤慨している姿が想像出来て、どうにも愉快じゃないか。
彼らはきっと、日本の缶コーヒーのCMに出演しているトミー・リー・ジョーンズのような「無表情」で、コーエン兄弟の映画を観ているにちがいない!!
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2008年、『バーン・アフター・リーディング』を発表。
笑いの封印は本人たちにとっても少々きつかったのか、本作は過剰なまでにドタバタに徹しており、真面目に鑑賞するのがバカらしくなるひとも「きっと」居ると思う。
この映画の笑いの基本は、フィットネスセンターで働くブラッド・ピットによって生まれている。
彼は、偶然手にした元CIAによるCD-ROMをネタにして恐喝を思いつく。
「5つ子なんだから」と赤ちゃんひとり泥棒しちゃう夫婦。
妻の偽装誘拐を企てる冴えない夫。
大金を横取りしてホラー映画よりも怖い目に遭う男。
なんだ、いつものコーエン兄弟の映画じゃん!!
ジャンルはちがえど、みんなバカヤロウたちなのだ。
『バーン・アフター・リーディング』は、地球を俯瞰する映像で幕を閉じる。
バカヤロウたちの住むところ・・・いや、地球は、そんなバカヤロウたちによって成り立っている―コーエン兄弟の映画は、ひょっとすると、そんな壮大なテーマを扱っているのかもしれない。
・・・・・。
ん?
いま、コーエン兄弟に笑われている気がしたが、・・・気のせいだろうか?
…………………………………………
つづく。
次回は、12月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『あたしは、花なの―リンダ・ラヴレース』
「原作では老保安官のモノローグが随所に挿入され、ほとんど主役の語り部的存在となっているが、映画の方ではこの保安官の描写はあまり目立たず、あくまでシガーの存在感がより強烈に目立つように描かれている」
「きっとコーエン兄弟は、シガーという存在を強調して描くことで、<世界の外部の闇>を映画全土に、原作以上に充満させたかったのだろう」
「この映画がこれまでのコーエン兄弟の作品と比べて一番異彩を放っているところはそこである」(批評家・大口和久、『ノーカントリー』を論じる)
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前章で「コーエン兄弟には一貫性がない」と結論づけたが、ほとんどの作品に「笑い」が宿っている―この点だけは一貫性があるといってもいい、、、ような気がする。
スラップスティックな笑いがあれば、ひとを喰ったような笑い、シニカルな笑い、批評性に富んだ笑いもある。
クールな手触りの『バーバー』(2001)でさえ笑いは生きている。ほんの少しの、ニヤリとさせるもの、、、ではあるが。
ただ、オスカー受賞作『ノーカントリー』(2007)には笑いは存在しない。
1ミクロンたりとも、笑えない。
これは物語の性質上、笑いは必要がない、もっといえば「笑いが邪魔になる」と考えたからだと思う。
原題はコーマック・マッカーシーの原作と同様に、『NO COUNTRY FOR OLD MEN』。
邦訳本では『血と暴力の国』とされているが、くだけた表現にすれば『ジジイに住むところはない』となるか。
日本版の予告編でも保安官役のトミー・リー・ジョーンズがいっている、「最近の犯罪には、ついていけない…」と。
麻薬の取引がおこなわれたであろう数時間後の、テキサスの荒野―そこには複数の死体とともに、200万ドルの大金が残されていた。
主人公モス(ジョシュ・ブローリン)は大金を持ってその場を離れ、静かな日常が戻ってくるまで逃亡することを決意する。
だが標的が死ぬまで絶対に追跡をあきらめない男、アントン・シガーが動き出し・・・。
シガーは殺さなくともいいものまで殺す。
だから彼は行く先々で死体を作る。
その凄惨な現場を目の当たりにした保安官―原題『ジジイに住むところはない』は、おそらく彼の思いをことばにしたものだろう。
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『ノーカントリー』は、ジョージ・クルーニー&キャサリン・ゼタ=ジョーンズという二大スターを起用した『ディボース・ショウ』(2003)、トム・ハンクスを起用した『レディ・キラーズ』(2004)のあとに制作されている。
メジャー資本で撮った前の2作はそれなりにヒットはしたが、ノン・クレジットで鑑賞したとするならば、ひょっとすると映画通でもコーエン兄弟によるものだと気づかないかもしれない。
そのくらい没個性といったらいいのか、笑いはふんだんにまぶされているにも関わらず、「コーエン兄弟の映画を観る愉しみ」を感じられない・感じさせない創りになっていた。(とくに、『ディボース・ショウ』を褒める批評家は皆無に近かった)
一貫性が―といいたくなるが、いやいやだから、この兄弟監督にはそれがないはず。
一貫性云々は無関係、スターのために「ただただ」職業監督に徹した、そう結んだほうが正しいのかもしれない。
けれども職業監督によるストレスは生じた、スタジオに気に入られるように撮ったのに評判も芳しくない、そういうモヤモヤを発散させたのが『ノーカントリー』だったような気がする。
笑いはもう充分だ、とことんシビアな視点でこの世界を見つめてやろうじゃないか―痛快なのは、現代米国を「チクリ」どころか「グサグサ」と刺すような物語でオスカーを取ってしまうところ。
好きは大好き、嫌いは大嫌い―たぶん、米国におけるコーエン兄弟の評価はそんなところなのではないか。
古きよき米国を絶対に描かない兄弟監督のことを「どうも虫が好かん」と思っているアカデミー会員も「絶対に」居るはずで、
『ノーカントリー』の出来を認めつつ、テーマ性にも共感しつつ、それでもオスカー受賞は気に入らないと憤慨している姿が想像出来て、どうにも愉快じゃないか。
彼らはきっと、日本の缶コーヒーのCMに出演しているトミー・リー・ジョーンズのような「無表情」で、コーエン兄弟の映画を観ているにちがいない!!
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2008年、『バーン・アフター・リーディング』を発表。
笑いの封印は本人たちにとっても少々きつかったのか、本作は過剰なまでにドタバタに徹しており、真面目に鑑賞するのがバカらしくなるひとも「きっと」居ると思う。
この映画の笑いの基本は、フィットネスセンターで働くブラッド・ピットによって生まれている。
彼は、偶然手にした元CIAによるCD-ROMをネタにして恐喝を思いつく。
「5つ子なんだから」と赤ちゃんひとり泥棒しちゃう夫婦。
妻の偽装誘拐を企てる冴えない夫。
大金を横取りしてホラー映画よりも怖い目に遭う男。
なんだ、いつものコーエン兄弟の映画じゃん!!
ジャンルはちがえど、みんなバカヤロウたちなのだ。
『バーン・アフター・リーディング』は、地球を俯瞰する映像で幕を閉じる。
バカヤロウたちの住むところ・・・いや、地球は、そんなバカヤロウたちによって成り立っている―コーエン兄弟の映画は、ひょっとすると、そんな壮大なテーマを扱っているのかもしれない。
・・・・・。
ん?
いま、コーエン兄弟に笑われている気がしたが、・・・気のせいだろうか?
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つづく。
次回は、12月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『あたしは、花なの―リンダ・ラヴレース』