チャーリー・シーンが大変なことになっている―HIVであることを激白―が、ヒトゴロシにでもならないかぎり、自分はこの俳優のことを嫌いになることはない。
自分にとって『プラトーン』(86)は、そのくらい大事な映画なのだった。
成龍やスタローン、シュワ氏が主演する肉体派映画を観て育った世代である、戦争は格好いいものと捉え、『プラトーン』もそうした流れを汲む映画だと勘違いして観に行った。
監督は、ホンモノの戦場を知るオリバー・ストーン。
「政治家になったほうがいい」と、淀川先生が死ぬまで嫌っていた「商売上手の社会派映画監督」である。
でもそんなことは関係なかった、泥沼化するベトナム戦争そのものを批判しつつも、戦場で「この世の真理」に辿り着く青年の成長物語は、群馬の片田舎で暮らす包茎野郎のハートを撃ち抜き、
映画は社会を撃つことが出来るんだ!!
フィルムで闘っているひとが居るんだ!!
と、映画の観かたを180度変えてしまう威力を持っていた。
その翌日に観たのが、チャップリンの『独裁者』(40)。
同世代のヒトラーを徹底的に茶化し「命がけ」で映画を創っているチャップリンに感銘を受け、世界で起こる様々な問題に目を向けるようになっていく。
ちょいと悪くいえば「ガッチガチ」の社会派人間。
それを証明することになるのか、当時の自由作文で取り上げたテーマは「南アフリカのアパルトヘイト政策」であった。
方向としては間違ってはいないが、ガッチガチ過ぎやしないか・・・と、いまでは思う。
映画の可能性を「それだけ」に絞ってしまっては、ここまで映画を愛せなかったろう。
そんな自分を救ってくれたのが、わが神映画『タクシードライバー』(76)だった。
戦場の悪夢が彼から安眠を奪ったのであろうか、不眠症のベトナム帰還兵トラビスは、24時間の臨戦態勢でタクシー運転手をやっている。
怖いものはない、だから、いつでもどこでも車を走らせ、どんな客でも乗せる。
ニューヨークと、そこで生きるひとびとのほとんどが腐っている―そう考えるトラビスは、「掃き溜めに鶴」の存在であるベッツィに恋をする。
と同時に、少女娼婦アイリスに「マトモな青春」を送らせるため、業界から足を洗うよう説得を試みる。
しかしベッツィに冷たくされたことが引き金になったのか、トラビスは暴走を始め・・・そんな物語。
主題はずばり、孤独。
トラビスはアイリスに「君には友達が必要だ」と話すが、ほんとうに友達が必要だったのはトラビス自身であったのだろう。
彼は先輩ドライバーのウィザードに悩みを打ち明けるが、こんな風に返される。
「お前のいっていることが、さっぱり分からない。どうせ俺たちは、負け犬だ。酒を呑んで、女を抱け」
北方謙三の「ソープへ行け!」みたいだが、このことばが刺さったのはトラビスだけではない、
この映画を好きだと公言する男たち「みな」のこころに刺さったのだと思われる。
入院中だった脚本家のポール・シュレイダーは、ここ数日「ナースとしか会話をしていない」ことに気づいてゾッとした。
その日に目を通した新聞に、カーター大統領の暗殺を企てていた男が逮捕されたという記事が載っていた。
政治的理由、一切なし。
シュレイダーはこの記事から想を得て、トラビスの物語を紡いだ。
その「怒りと負のパワー」に満ちた脚本は、最初ブライアン・デ・パルマの手にわたり、一読したデ・パルマは「君にこそ相応しい」と、スコセッシに譲ったのである。
こうした裏話をプロダクションノート風に綴っていくだけで、ゾクゾクするものがある。
複雑怪奇、、、といったらいいのか、この映画の魅力とはなんなのだろう。
自分が『タクシードライバー』に取り憑かれていく過程をもう少し説明するために、あすも『リッジモント・ハイ』を展開していこうと思う。
つづく。
※オリバー・ストーンの映画では、エンド・クレジットに「naizyo-noko」ということばが登場する。
そう、内助の功として夫人がクレジットされているのだ。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(156)』
自分にとって『プラトーン』(86)は、そのくらい大事な映画なのだった。
成龍やスタローン、シュワ氏が主演する肉体派映画を観て育った世代である、戦争は格好いいものと捉え、『プラトーン』もそうした流れを汲む映画だと勘違いして観に行った。
監督は、ホンモノの戦場を知るオリバー・ストーン。
「政治家になったほうがいい」と、淀川先生が死ぬまで嫌っていた「商売上手の社会派映画監督」である。
でもそんなことは関係なかった、泥沼化するベトナム戦争そのものを批判しつつも、戦場で「この世の真理」に辿り着く青年の成長物語は、群馬の片田舎で暮らす包茎野郎のハートを撃ち抜き、
映画は社会を撃つことが出来るんだ!!
フィルムで闘っているひとが居るんだ!!
と、映画の観かたを180度変えてしまう威力を持っていた。
その翌日に観たのが、チャップリンの『独裁者』(40)。
同世代のヒトラーを徹底的に茶化し「命がけ」で映画を創っているチャップリンに感銘を受け、世界で起こる様々な問題に目を向けるようになっていく。
ちょいと悪くいえば「ガッチガチ」の社会派人間。
それを証明することになるのか、当時の自由作文で取り上げたテーマは「南アフリカのアパルトヘイト政策」であった。
方向としては間違ってはいないが、ガッチガチ過ぎやしないか・・・と、いまでは思う。
映画の可能性を「それだけ」に絞ってしまっては、ここまで映画を愛せなかったろう。
そんな自分を救ってくれたのが、わが神映画『タクシードライバー』(76)だった。
戦場の悪夢が彼から安眠を奪ったのであろうか、不眠症のベトナム帰還兵トラビスは、24時間の臨戦態勢でタクシー運転手をやっている。
怖いものはない、だから、いつでもどこでも車を走らせ、どんな客でも乗せる。
ニューヨークと、そこで生きるひとびとのほとんどが腐っている―そう考えるトラビスは、「掃き溜めに鶴」の存在であるベッツィに恋をする。
と同時に、少女娼婦アイリスに「マトモな青春」を送らせるため、業界から足を洗うよう説得を試みる。
しかしベッツィに冷たくされたことが引き金になったのか、トラビスは暴走を始め・・・そんな物語。
主題はずばり、孤独。
トラビスはアイリスに「君には友達が必要だ」と話すが、ほんとうに友達が必要だったのはトラビス自身であったのだろう。
彼は先輩ドライバーのウィザードに悩みを打ち明けるが、こんな風に返される。
「お前のいっていることが、さっぱり分からない。どうせ俺たちは、負け犬だ。酒を呑んで、女を抱け」
北方謙三の「ソープへ行け!」みたいだが、このことばが刺さったのはトラビスだけではない、
この映画を好きだと公言する男たち「みな」のこころに刺さったのだと思われる。
入院中だった脚本家のポール・シュレイダーは、ここ数日「ナースとしか会話をしていない」ことに気づいてゾッとした。
その日に目を通した新聞に、カーター大統領の暗殺を企てていた男が逮捕されたという記事が載っていた。
政治的理由、一切なし。
シュレイダーはこの記事から想を得て、トラビスの物語を紡いだ。
その「怒りと負のパワー」に満ちた脚本は、最初ブライアン・デ・パルマの手にわたり、一読したデ・パルマは「君にこそ相応しい」と、スコセッシに譲ったのである。
こうした裏話をプロダクションノート風に綴っていくだけで、ゾクゾクするものがある。
複雑怪奇、、、といったらいいのか、この映画の魅力とはなんなのだろう。
自分が『タクシードライバー』に取り憑かれていく過程をもう少し説明するために、あすも『リッジモント・ハイ』を展開していこうと思う。
つづく。
※オリバー・ストーンの映画では、エンド・クレジットに「naizyo-noko」ということばが登場する。
そう、内助の功として夫人がクレジットされているのだ。
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(156)』