すみません、読まなきゃいけない本が積まれていて、まだしばらく読めそうもありません。
ただ、ぺらぺらとめくって、昨年の大会レポートを佐野久子さんが書いてらしたので、そこだけ読みました。
最近は、新刊を出されていないし、もう何年もお会いしてませんが、大ベテランです。
その方が、最初に大会に出たときに、そこで言われたことを書いてらっしゃいました。
その方は、ご自身の胸をぽんぽんとたたき、
「作品というのは、ここで書くんだよ。ここ、ここ。あなたの作品は手首で書いている。書ける人はつい手首で書く。書けてしまうからやっかいなんだ。ここで書く作品はしんどいよ。書く方も読む方も」と。
季節風大会は厳しくて泣く人がいると聞いていたけど、まさか作品をいじられたくらいで泣くなんて、と思っていた佐野さんは、この日泣いたとのこと。
「でも私はその日、泣いたのです。手首を使ってちゃらちゃらと仕上げた作品を、ずばり見抜かれた怖さと恥ずかしさで。」
佐野さん・・。
まだデビューできてないころ、佐野さんの作品を読んで、その心理描写の見事さに(ああ、こんなふうに書きたい)と思ったものでした。
私は大会にはもうずっと出ていません。数年前まで少しはお役にたてたらとやっていた書評委員も、やめました。つまり、全く関わっていないのです。これならいる意味はないのでは? と思うこともしばしばです。なんでいるの? と思ってる人もいるだろうとも感じてしまいます。でも、こうして「季節風」が届いて、こういう言葉と出会うと、やめずにいてよかったと思いました。
心で書くなんて、古い?
プロットがどうの、という技術を伝える講座に人が集まります。技術は大事。心をちゃんと伝えるための技術です。
でも、やっぱり佐野さんのいうところの「ここ」。ここがなくっちゃ。
佐野さん、この文を書いてくださって、ありがとうございます(たぶん、このブログなんて、読まれてないでしょうが・・)
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