東京オリンピックのエンブレムが盗用か? というニュースを見ていたとき、これは微妙だなあと思っていました。ああいったもののデザインは、基本的に単純な形の組み合わせが多く、佐野氏のものも、イタリア人の方の作品も、ローマ字のTと丸の組み合わせです。色に関しては全く問題なく独自性がありました。Tの字を選ぶのは東京オリンピックなので当然、そこに日の丸の丸を配置、となるとイタリアの方のデザインを見ていなくても、似たものになるというのはあり得るかなあと思ったのです。
なので、関係者が「盗用ではない」と言っているのはあながち違うとは言い切れないと思っています。特に最初の案の方は、やっぱり別物と思います。
でも、佐野氏がデザインの撤回をした先日、ポスターの使用例はネットの写真を転用したと認めたこと知って、(こりゃ、ダメだ)と思いました。仕事をする中で、他の方の仕事をベースにしていることを認めたわけですから。
仕事柄いろいろなデザインを見ているでしょうから、それが頭の中にあっただけで意図的ではなかった場合もあるかなと思うけれど。
そういうことが、文学でもあるのです。
私の句で、
耳袋していろいろと思ひ出す あぶみ
という句がありますが(『角川大歳時記』にも採用されています)、芭蕉に
いろいろなこと思ひ出す桜かな 芭蕉
があります。耳袋の句を作ったとき、芭蕉の句は知りませんでした。幸い、盗用じゃない? などと言われたことはありませんが、似てるといえば似てます。と自分で思っています。でも耳袋をして外部と遮断された状態の自分ということと、桜を見ている芭蕉とでは全く違ってオリジナルがあると自負しています。
でも、
種蒔いてたちまち種を見失ふ あぶみ
という句をずーっと以前、句会に出したときには、主宰に、いい句だけれど、中村汀女に似た句がある。と言われ、調べたところ、
花の種 土のうすさにはや見えね 汀女
という句がありました。なるほど。言葉の使い方は違うけれど、言っている内容は同じ。
これは違うよーと言い張ることもできる範囲かなとも思いながら、主宰の判断に従い、その後発表はしていません。が、記憶に残っている句です。
俳句としては汀女の句のほうがいいと、今ならわかります。私のは散文的で切れがない。俳句では、句会で「○○の句に似たのがある」と言われるのはよくあることなのです。だからこそ、著名な句をちゃんと勉強しなくてはならない。それでも全国で数多ある俳句の賞では、後になってから賞を取り消すということも多々聞く話だったりします。これは明らかに盗用した場合と、以前どこかで読んだのを忘れていて、でもふっと出たのが自分のオリジナルと勘違いしたという場合と、まったく知らずに作ってたまたま似ていたと、3通りあると思います。
そしてそして、こうして書いていて、すっかり忘れていたことを思い出しました。
何年も前、あちこちに数打ちゃあたる的に、児童文学の公募に応募していたときのことです。ある作品が選に落ちた数ヵ月後、某作家さんが出した新刊を読んで、びっくり。私が書いたものに、設定が激似だったのです。おおまかな設定だけだったらよくある話ということになるのですが、あれは細部も結構似ていて・・・。男の子が女の子に、犬が猫に、その動物の大好物が和と洋の違いだったりと、違ってはいるのですが、実はその犬が(猫)・・というところは同じで、読んだときは、(これはもしかして、私の応募作がどこかでもれたのか)と本気で悩みました。でも、むこうは有名な作家さんでこっちは素人ではたちうちできず。
なんて思ったあと、いや、人の発想というのは、こういうことがあるものだ。話の展開を考えていって、子供がおもしろがりそうな方向に行ったらこうなることもある。と、偶然だったと気持ちを落ち着かせたのです。もちろん、私のその作品はお蔵入りですが。
あるんです、こういうことって。
表現者にとってオリジナリティというのは、とても大事にするところです。ただ、そこだけにこだわっていると、奇をてらったものを書いてしまいがち、オーソドックスというのも実は大事だと思うのでありました。あ、これって芭蕉のいう「不易流行」だ!
武蔵国分寺跡の走り根 (なんの木だったか忘れた)