*長文です。芭蕉、俳句に興味のない方はスルーしてください。
元気なうちに、行きたいところに行こう。そう思ったのは、一昨年くらいでした。
バスツアーなど、いろいろ調べて、目星をつけていたら、なんと新型コロナウイルスの騒ぎが始まり、旅行などできなくなりました。
子ども向け俳句本『わくわく子ども俳句スクール』の中には、芭蕉の句をたくさん載せました。『おくの細道』や芭蕉のことも、かなり書きました。
でも私自身、おくの細道の行程を全部歩いたことはありません。
行っておくべきじゃない? と思ったのです。
いつか芭蕉の伝記を書く機会がめぐってくるかも、という気持ちも正直持っています(お声かけ、待っております笑)。
で、今回はようやく旅行に行けるとなり、申し込みました。
このツアーは、芭蕉の足跡をたどるので、1回目は深川。3回目は日光と、日帰りツアーだったようです。その辺は私は行っているので、この4回目に参加したというわけです。
前置きはさておき、
芭蕉は春に、深川を出立しています。ツアーも、同じ季節のものが春にはあるようですよ!
時期を同じくするのが理想的ですね。でも贅沢はいってられません。行けるときに行こう! ですから。
新宿に集合して、バスで出発です。さそいあっての旅行の方が多いのかなと思っていましたが、案外お一人らしき方たちが多かったです。ご夫婦らしいのが3組? あとは、私より年配かなという方達、ひとりで参加されていました(私も一人で参加しました)。17名プラス添乗員さんそして先生です。先生は、街道がご専門だそうです。ガイディングレシーバーで、しっかり説明も聞くことができました。
座席は距離をおき、二人がけに、一人。なので、ゆったりです。
高速道路を北上し、栃木県へ。
最初に降りたのは、玉生(たまにゅう)です。
曾良の日記には、「玉入(玉生)泊。宿悪シキ故、無理に名主の家ニ入リテ宿借ル」とあります。宿というのは、今だと旅館をいいますが、家のことも「宿」といっていました。芭蕉は名主の家に泊まったのです。
玉生七郎右衛門さんです。
この碑はありますが、現在そこは、空き地になっています。
このような蔵が2棟残っていました。栃木なので、大谷石です。立派です。ここに代々住んでいた方の暮らしぶりがうかがわれます。私はなにしろ、蔵フェチなので。
さて、このあと常念寺、明王寺など寄り、句碑を見ましたが、写真のどれがどれだか・・。
こちらは、黒羽の芭蕉の館の前にあった芭蕉と曾良の像です。
芭蕉さん、馬に乗ってますね。芭蕉は健脚で、ときには40キロも一日で歩いたこともあるそうです。でも那須野では、雨降り、日も暮れたため、馬を借りたという文章が「おくの細道」で書かれています。馬を貸してくれた農夫は、「このあたりは、旅人では道を間違ってしまうでしょう。この馬がとどまるところで、馬を返してください」といいます。(馬は賢いから、自分で家に帰ってくる)その芭蕉と曾良を、子どもがふたり、走って追ってきます。一人は小娘で、名まえを「かさね」という。その名前がいいなと思ったのでしょう。
かさねとは八重撫子の名なるべし 曾良 という句が残っています。*この句、曾良が作ったことになってますが、実は芭蕉の作ではといわれているようです。「おくの細道」は、創作ですからね。
夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)かな 芭蕉
これは、このあと白河の関を無事に超えられますようにという思いの句。
黒羽には、江戸で芭蕉の門弟だった桃雪(とうせつ)がいて、歓待を受けたようです。それで、14日もいて、あちこちめぐったとのこと。
野を横に馬牽(ひ)き向けよほととぎす 芭蕉
秣(まぐさ)おふ人を枝折(しおり)の夏野かな 芭蕉 これは、この地で歌仙を巻いたときの発句です。
今日も又朝日を拝む石の上 芭蕉 という句も、お寺さんに句碑がありましたが、これは季語がありません。歌仙の中で読まれた一句だからです。歌仙はその中で式目といって、いろいろな決まりで巻いていくので、このように今の俳句では、ないようなものが入ります。わかりやすい内容ですが、句碑にするなら、発句にしたほうがよかったのでは? と思ってしまいました。どうなんだろう。
歌仙を巻いて、楽しんだのだろうなあと思います。これって、ゲームみたいなものですから。
この芭蕉の館があるのは、黒羽城跡。黒羽城は、大関氏が治めた城です。明治になるまで、お国替えなどなく、続いたというめずらしい大名だそうです。
この日は、芭蕉をもてなした桃雪の屋敷があったところと、、そのお墓を、暮れつつある下野の夕日をバックに見て終わりました。
長い文章を読んでくださって、ありがとうございます!
旅日記、続きます。