何度か書いていますが、7年前のきょう、私は岩手県北上市にいました。
舅が盛岡の病院に入院していたので、毎日電車で通っていたのです。本当なら2時46分頃は、まだ盛岡。ただその日に限って、前日だるまストーブが壊れ、修理に来ていただく約束があり、お昼過ぎにはもどっていました。そうじゃなかったら、盛岡からもどることもできなかった。そうだったら、ホテルとか泊まることができたのでしょうか。
さて、北上の家も、これは、壊れるかもと思い、外に出てまわりの様子をうかがっていました。立っていることができず、しゃがんで地球が終わってしまうのではないかと思ったものです。
地震がおさまり家に入ると、地盤がちゃんとしていたのか、壁にかけていた額がひとつ落ち、仏壇の線香立てが倒れてあたりが灰だらけになっていたくらい。二階では、テレビが落ちたりしていましたが、そのくらいの被害でした。
沿岸、津波来ないかな。私はすぐそう思いました。というのは、30年前、秋田沖で大津波があった記憶が残っていたからです。
それから、停電になり、もし復旧に時間がかかったら大変だと、電池や食料を買いに出ました。コンビニ前の道路が陥没していて、すでにたくさんの人が買いにきていて、棚はがらがら。それでもいくらかパンや電池を買って帰りました。
家の前にもどったら、お隣さんが「電気やさんが来てたよ」と。あらららら、ストーブの修理の方! こんなときに、なんて律儀な。と感謝。(その方は、よくよく日だったか、改めて直しにきてくださいましたよ)
余震が続く中、ろうそくでは危なくて、真っ暗にして過ごしました。ラジオでやはり津波がきていることがわかりましたが、あの映像を見られたのは、翌日夕方だったでしょうか。愕然としました。
石油スト-ブがあったので、それでおかゆなどを炊き。あ、そうそう。一人だったのですよ。
うちは、高速から沿岸へ行く道路の近くなので、何台も何台も、警察や自衛隊の大型トラックが、これまで聞いたことのないサイレン(うーうーじゃないの。ウォーーーーーーーと途切れない非常時だぞっていうサイレン)を鳴らしながら、沿岸へ向かうのを見ていました。大変なことが起こったと、感じていました。
沿岸には義妹一家がいますが、連絡が取れません。1週間後にようやく無事が確認できました。家も、三軒隣まで流されたけれど、無事とのことで。下旬にやっと、いろいろ車に積んで、訪れることができました。そしてあの惨状を目の当たりに。
その時と、その後数回訪れた時見聞きしたことを、この本には創作として書いています。
震災に遭った方ひとりひとりに、苦難があり、それを創作にすることは、直後数年はできませんでした。でもいつかは書かなくてはと思っていたことでもあります。出版後、「瓦礫」という言葉はどうなのだろう? あれは全て震災に遭ったみなさんにとって思い出のものというご意見をいただきましたが、私はあれを「瓦礫」と書くのに躊躇はありませんでした。もちろん全て大切な生きていた証なのだけれど、それがあの数時間で瓦礫になってしまったのです。それが事実です。
そのシーンを、画家の中川学さんは、少ない線で抽象的に見事に描いてくださいました。
まだ復興は途中。
東北以外のテレビは、明日からはもう震災の報道がなくなってしまうかもしれませんね。亡くなられた多くの方、大切な方を亡くした多くの方、
今も沿岸で踏ん張っている方、やむなくふるさとを離れて生きていらっしゃる方。「絆」という言葉が氾濫したときは、抵抗がありましたが、いろいろちりぢりになった今こそ、絆を感じていたいと思っています。
追記 「瓦礫」のことを言ってくださった○さん。きっとこのブログ読んでくださっていますね。書いてごめんなさい。でも言ってくださってありがたかったのですよ。それで、改めて覚悟ができたので。