さて、「蝦夷」。
このブログを読んでいる方なら、「エミシ」と読まれるかもしれません。これまで何度かエミシの話題を書いてますから。でも、この漢字「エゾ」とも読みます。北海道のことですね。
エミシは、古代東北に住んでいた民。すべからく中央政権に反抗していたわけではなく、友好な関係を築いていた時もあったようです。ただ、なにしろエミシは文字を持ってませんでした。なので、中央政権が残した記録でしか、その姿や関係を知ることができません。
そして、東北に採れる金や馬を税としてほしい中央政権は、エミシを制圧しようとします。
それが、「征夷」という言葉。征夷大将軍とは、その軍隊の大将のこと。坂上田村麻呂がその代表ですが、それ以前にもいて、エミシと戦いました。時に5万の兵を持ってきて、1500のエミシにかなわなかったこともあります。その後桓武天皇が、坂上田村麻呂を派遣。田村麻呂は10万の兵でやってきました。自分達の村が戦場となり、多くの犠牲を払ったエミシの長、アテルイはとうとう、和睦を申し入れ、田村麻呂はそれを受け入れます。しかし、ともに都へ行ったけれど、アテルイと腹心の部下モレは、斬首の刑に処せられるのです。
と、ここまでは前書きです(すみません、長くなるかも)。
今回書いておきたかったのは、自分にとってのまとめでもある「蝦夷」という漢字についてです。
これについては、この『古代蝦夷の英雄時代』工藤雅樹(新日本出版社)に詳しい。
まず、古代においては、「エミシ」という呼称はあったけれど、「エゾ」はなかった。「エゾ」は、平安末にその読みが出てきたとのこと。
また、最初に当てられた漢字は、「毛人」。蘇我毛人がそうですね。
5世紀以前、「エミシ」は、東国人を広く意味し、また強い人たち、恐るべき人たち、けれどいささか敬意を払うべき人たちというニュアンスが含まれていたという。これに「毛人」という漢字を当てたのは、中国の思想の影響。
古代中国人の世界観が記されている『山海経』という地理書には、世界の果てには、「毛人」という、なかば妖怪もどきの人が住んでいると記されている。
倭国、つまり日本は、中国に認めてもらいたかった。というような国際関係を背景に、「エミシ」を「毛人」と書くようになった。
さらに時代は下り、遣隋使を送るようになった日本は、エミシを伴っていったことがある。
当時、中国では、周囲の異族をその住地によって、東夷、南蛮、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)と呼び分けていた。そこで、日本もまた、東に住むエミシを、「夷」の文字を使ってあらわそうとした。そこで、「エミ」にふさわしい漢字を模索し、読みが似ている「蝦(えび)」を持ってきたのではないかということだ。
その頃は、まだ朝廷には、北海道の地まで把握されていない。陸奥の国を制圧、つなわち征夷することにやっきだった。その後、エゾが発見され、そこにまた「蝦夷」という漢字を当てた。
これは私見だが、中央から見たら、同じ北や東の果に住む野蛮人という扱いだったのではないだろうか。
もちろん、古代でも北海道から海を渡ってアイヌが来ただろう。また逆もあり、物々交換のようなことはされていたのではないか。東北にアイヌ語に似た地名が数多く残されていることが、それを示している。(というか、だから、エミシとアイヌが同じだとされていたということもある)
なにより、「蝦夷」という漢字が同じだったがため、長い間、エゾに住むアイヌと、東北に住むエミシが同一視されていた。
『古代蝦夷の英雄時代』の中でさえ、第一章は、蝦夷アイヌ説と蝦夷日本人説 というアイヌとエミシについてさかれている。
歴史は刻々と新しい発見がされている。現代では、エミシとアイヌは違うというのが定説だ。これは、平泉の藤原氏のミイラをDNA鑑定した結果なのだそうだ。(私的には、藤原氏というのも謎が多い、というかまあ勉強不足です)
ともあれ、私にとって、大事なのは、「蝦夷」は、古代の中央社会が、エミシに当てた漢字であり、蔑称だということ。「エミシ」は蔑称ではない。だから、私は、エミシと蝦夷(えみし)を使い分けたいという気持ちがある。
上の写真の『野心あらためず』は、20年前に出たもの。こちらは、数年前、光文社文庫で新たに発売になったものです。後藤さんは、蝦夷と漢字表記にしています。いわゆるアザマロの乱までを、架空の少年アビを設定して、描いています。真綱という実在の人物の解釈(というより、記録にない部分の創作)も、独自のもの。アイヌ色を出していないのは、さすがです。
*途中文章が、常体になったり敬体になったりで、すみません。ここに書いておけば、ノートで捜すより、検索でぱっと見つけられるものですから。それに、私以外にも、興味を持ってくださる方がいるのでは? という気持ちで置いておきます。読んでくださって、ありがとうございました。