「桜は葉」とか、「梅は実に」とか、変化が季語となっているものがあります。が、「杏は実に」は聞いたことないです。上手に使えば、それが季語として定着するのでしょうが。
梅みたい
じーっと目をこらしていると、徐々に見えてきます。
きょうは、出版パーティにおじゃまして、その足で岩手へ行きます。連休中、岩手と秋田と両方で法事。向こうでももう桜は終わっているみたいです。
「桜は葉」とか、「梅は実に」とか、変化が季語となっているものがあります。が、「杏は実に」は聞いたことないです。上手に使えば、それが季語として定着するのでしょうが。
梅みたい
じーっと目をこらしていると、徐々に見えてきます。
きょうは、出版パーティにおじゃまして、その足で岩手へ行きます。連休中、岩手と秋田と両方で法事。向こうでももう桜は終わっているみたいです。
ベジブロスとは、捨てられるような野菜の屑を煮込んで作った出しだそうです。
そう、夕飯を作っていると、野菜屑がたくさん出ます。私、最近はそれを小さな鍋で煮て、料理の最中、あるいは料理が終わってから飲んでるのですよ。味などつけず、そのままです。ネットなどを見ると、ベジブロスを利用して、ちゃんとしたスープや料理の一品にするのが出ていますが、私はそのまま(塩もこしょうもなにもしません)。だいたいマグカップ一杯分を飲んでいます。
おいしいかと言われると、確かに食卓に「どうぞ」と出せる味ではありません。でも、まずくはないと思います。体にいいものを採ってるぞという気分にはなるかな。
ベジブロスを検索すると、効果は、免疫力アップ、老化防止、抗ガンなど、いろいろあります。ほうれん草などアクの強い野菜はちょっと控えていますが。タマネギ、人参、大根、セロリ、キャベツの皮や茎で。
これは、葱坊主。葱もオーケー。
そして、このところ肌の調子がいいです。(当社比)
南瓜の種のあたりやピーマンのへたや種などもいいらしい。今度やってみよう。
出かけるときには、カメラを忘れないようにして、これという場面を撮っています。が、俳句の吟行のときは、やっぱりカメラ持たない方がいいのかなあ。
というのも、句会では、5句出して、それを主宰(副主宰)の添削を受けるのですが、うちの結社の場合、特選、入選、並選、そして無選と4段階に分けられます。特選の◎がついてくると、やったーと喜んで、並選、無選ばっかりだと、がっかり。勉強なのだから、その成績にばかりこだわっていてはいけないと重々言い聞かせてはいるのですが、やはり句稿がもどってくると、さあ、今回は? どうだ? となります。
で、この前カメラを忘れた日の成績が……よかったのですよ……。これは、カメラを持たずに、ちゃんと自分の目で見て歩いていたからよかったのか? と思った次第です。確かに、カメラを持っていると、いいアングルを捜していることが往々にしてあるんですよね。つまり、そのときは、言葉が頭の中にない。
人の脳って、不思議なものです。
でも、このブログに写真は載せたいし。今度からは、ちゃっと1、2枚撮って、あとはカメラから離れようか。
近所の菜の花と諸喝采
物語の中で、数字を使うとき、1,2,3より 漢字の一、二、三を使う方が普通です。
生徒が5人いた。ではなく、生徒が五人いた。1組ではなく一組。
3時だ。ではなく三時だ。
縦書きだからというのも、理由のひとつでしょう。
でも、これを平仮名にしたいとき。つまり一人、二人より、ひとり、ふたり、と。(感覚の問題です)、ひとり、ふたり、さんにん じゃあ変ですよね。ひとり、ふたり、三人 かなあ。それも、変な感じがします。「一つ」じゃなく「ひとつ」と仮名にしたい気分のときって、ありませんか? 一つを仮名にしたら、二つではなく「ふたつ」だし、そのまま「みっつ」は、変。としたら、数が増えそうなときは、開かずにやっていくべきか。
なーんか、今さらそんなことで悩んでいたりして。
ぎしぎし(たぶん)
あと、ネコと表記をしているのに、同じ文の中で、犬という漢字になるのはどうでしょうか? イヌ、ネコ、あるいは犬、猫、と統一するべきじゃないかと思うのですが、これは実際に最近読んだ本に混同して一文にあるのを見つけたのでした。
それとも、こういうのは校正の方の仕事に属する問題なのか。
戦争体験をされた方達が、声をふりしぼってらっしゃいます。戦争を知らない世代の私達もまた、それを引き継いでいかなくてはなりません。ふとチラシを見ていて、呼びかけ人代表となっている松谷みよ子さんや古田足日さんが、すでにお亡くなりになられているなあと、寂しくなりました。チラシ作成のときには、まだご存命だったのでしょう。(あるいは、呼びかけ人として、ずっとお名前は残すのかもしれません)
会員向けのレポートには、あまんきみこさんが松谷みよ子さんの追悼文を書かれてらっしゃいました。私、一応会員なのです。入会金1000円を払うだけで、会員になることができます。
5日間にもわたり、盛りだくさんのイベントとなっています。
ブログに詳細があります。どうぞ、ご覧下さい。
本当に、子ども達にとって夢のある未来でありますよう。平和な世の中でありますよう。願ってやみません。
このところけんくわもせずに蜆汁 あぶみ (『だだすこ』)
喧嘩を旧かなで書くと、「けんくわ」。なんか、たいした喧嘩じゃない気がしますね。そう。喧嘩もエネルギーの必要なこと。とんと、そのエネルギーはなくなっている……かな。
豆の花
大分前のことですが、小石川後楽園に吟行に行ったとき、65才以上だと入園料が半額という線引きがあったので、私はそのとき、「65才以上の方は、何人でしょう」と数えようとしたのです。するとある方に、「あぶみさん以外全員だよ」と言われ、愕然。そうかー。みなさん、(実際の年齢より)若いよなあ、元気だよなあと思ったのです。それから、この方達の年になるまで、まだ一仕事できるなあとも。
私、はっきりとはもうしませんが、未だその線引きのずっと(というほどでもないか?)手前におります。が……、このごろ歩いていて、前より足が上がっていないことに気づいたり、夜にはあれこれ(原稿を含む)できなくなっていたり、(夜の外出はとうに、億劫になってます)。いやいや、もう少ししっかりしなくてはいけません。一仕事……もう少しがんばらなくては。
鹿野山神野寺のお札
先日の吟行でも、みなさんかなりの距離をよく歩いてらしたなあ。(私、へとへとでした)
話は関係ないですが、先日、「仲代達也に似てる」と言われました。これって、喜ぶこと?
吟行で行って来ました。国立の駅から、バスで矢川方面へ行ったところです。
時節柄、鎧が飾られ、鯉のぼりが立てられていました。周囲は、縄文から中世にかけてのいろいろなものが発掘されている地域。さまざまな木々や野草も見られ、散策にとてもいい場所です。
ところが、ううっ、カメラを忘れてしまったのですよ。(上の写真は、実はちらしをいただいてきて、家でそれを写したもの)隣接する城山公園や道すがら、二輪草の群生が見られたり、筍が出ていたり、蛇が出たり、残花もあれば、桜蘂が積もっていたり、キャベツを売っていたり、牡丹のすばらしい庭があったりだったのに。(蛇穴を出る、が春の季語)
かなり歩いたので、くたくたでした。
家の外回りをやる季節になってきました。草取りは、今くらいならまだそんなに疲れません。
二階ベランダを下からながめた部分が、一部腐ったようになっているのを発見。素人でメンテナンスができる程度ではないようです。うちのまわりには、木が多く、雨樋に松葉もたまっています。
住んで10年。長持ちさせるためには、こまめにメンテナンスをしなくてはならないようです。
山吹
今回、投稿作品の掲載はなし! という厳しい結果でした。これは、「季節風」始まって以来とのこと。編集委員のみなさんの苦渋の決断と、固い意志が伝わってきます。
ある方の作品評に、代表あさのあつこさんが書かれている言葉にはっとさせられました。どんでん返しや奇抜なストーリーの類ではなく、この作品でしか、炙り出せない少女の心内と日常に潜むものを読ませてほしい。内に異相、異質、異界を持たなければ、消費されて終わる。その厳しさに向かい合って書いてください。
書くって、厳しいこと、甘い気持ちでいてはいけない。嗚呼。
今回、私は書評委員会の一人として、森川成美さんの『あめあがりのかさおばけ』の書評を書かせていただきました。
掲載されている昨年の大会推薦作、ひとつは評論、ひとつはノンフィクション。創作は2編でした。みなさん、底力を持ってらっしゃる。なんというか、ズシンとしたもの。
1~5巻
漫画大賞を受賞したこの作品、大人買いしました。ああー、おもしろかったよー、よかったよー。じわっときましたよ。一度通して読んで、ところどころ、また読んで、また読んで。読んでないときも、頭の中に画像が浮かんで、台詞が浮かんで。実際の日高先生のことをネットで検索したりして。これほど、隅々までおもしろい小説って、あるだろうか。小説負けてるんじゃないだろうか。とまで、思ってしまいました。
売れてるだろーなあ。図書館じゃ読めないし、なおさらですね。5巻で完結してくれたのも、このごろは延々と続くのが多いので、助かります。タイトルもいいですね。
ずーっと昔、石膏デッサンをやったことがあるので、身につまされる部分もかなりあり。この本のいいところは、作者が過去の自分の恥ずかしいところを隠さずに書いていることなのだとも思った次第です。タイムマシンがあったら、過去の自分をぶっとばしにいくというくだりが何カ所か。わかるわかる。私、まだこれができていないかも。
大分前に、東村アキコの『海月姫』を2冊くらい読んだのだけど、こちらはよく覚えていません。(おもしろかった記憶はあるのですが)
しかし本屋さんの漫画コーナーに立ち寄ると、知らない漫画家、漫画が山積みです。漫画大賞が、私みたいなもんには、はずれなくおもしろいのに出会わせてくれるいいきっかけです。過去の漫画大賞で、読んでいないのも読みたい。(『銀の匙』とか)
お天気がよかったので、中央本線に乗って、ヤマナシを見に行って来ました。猿橋駅で下りて、駅前の木を見て写真を撮って帰るというだけの旅です。
うん、満開! 花の付き方は、桜に似ています。(軸のようなものがある。桜より長い)
木が一本しかなくても、実が成るのだろうか。(受粉の関係で、どうなのか?)成るとしたら、8月くらい? また来てみましょう。
木全体を見ると、地味な感じ
これ、きらん草、別名「地獄の釜の蓋」だと、思うのですが、野草に詳しい方、いらっしゃいませんか?
この島に生ふや地獄の釜の蓋 川口未来
もう20年以上も前に、初めて句会というところに出かけたとき、この句が廻ってきて、さっぱり意味がわからなかったのです。で、最後に草の名前だとわかって、へえーっと。未来さんは昨年お亡くなりになられたけど、こうして、句はちゃんと人の心に残っています。私の作った俳句や物語も、誰かの心に残るといいなあ。たとえたった一人でも。
いつもの散歩コースのお宅の庭に見つけました。たぶん、ヤマナシだと思うのですけど。実が成っているのは、見た記憶はないのですよ。観察、観察。
これは、カリンの花
ピントが花に合ってないなあ。毎年、落ちている実をいただいている木です。
実が成る花たちは、葉といっしょに出るのですね。そういえば、林檎もそうだったような。
桜は、散ってもなお、「残花」として、楽しませてくれます。これが、立夏をすぎて残っていた場合、「余花」となる。という言葉の使い分けも日本語ならでは。
俎を長く大事に余花の家 あぶみ (『だだすこ』)
ぱらと打つ余花のでんでん太鼓かな (『だだすこ』)
あ、まだ春なのに夏の句を出してしまった。先取りはいいとは、いいますが。