私にとって、書くという事は、
出せない手紙のようなものだ。
おはようございます。
子供の頃は、こう見えて、極めて引っ込み思案だった。
いや、今だって、かなり消極的な部類だから、
スーパーで1,000円以上買ったら、
「サービスカウンターで、福引きできますよ」と言われても、
恥ずかしくって、なかなか行けない位だ。
だって、当たったら、喜びのリアクションを取らないといけないし、
もっと難しいのは、はずれた時だ。
「あら~残念でしたね」と言われたら、どう返せばいいのだ?
「全然、平気です」と言うべきか、「あちゃ~」と言いながら、
頭を抱えてのけ反ってみせた方がいいのか、
そういう事を考えているだけで、気まずい気持ちになるのだ。
だから、せっかくのチャンスも逃してしまうという訳だ。
しかし、子供の頃は、もっと顕著だった。
人前で言葉を発せない。
名前を呼ばれただけで、赤面する有様だったから、
低学年の頃は、いじめの対象になっていた。
石を投げられたり、水溜まりで、なぜか土下座させられたこともあった。
その数年後、自ら水溜まりにダイブして周囲を爆笑の渦に巻いてやったけどね。
そうそう、石を投げてきた子にも、ちゃんと仕返しはした。
体育の時間にドッジボールを至近距離から思い切りぶつけて、
ほくそ笑んでやったっけ。
子供ながらに、戦う術や誤魔化す術、
自分のいじくその悪さを発見し育んでいたのだろう。
それでも、本質が変わることはなかった。
私は、小学3年生になっても、時計の読み方が分からなくて、
それを先生に聞けなくて、手紙を書いた。
実は、「自転車も乗れません」と付け加えた。
同級生に、「ホントは一緒に遊びたい」と書いたり、
同じように、いやもっと酷くいじめられていた子に、
「ごめんね」と書いた。
お母さんにも書いた。色々書いたなぁ。
「具のない醤油焼きそば、もう飽きたんだけど、
だからって、そうめんのつゆが辛すぎるからつらい」とか、
「あのね、よその家はお手伝いするたび、小遣いくれるらしい」とか、
見苦しい不平不満を書きなぐった。
しかし、1通も出した事はない。
何度も何度も、読み返すだけの出せない手紙だった。
今は、手書きの手紙など書く必要性がなくなった。
もちろん、たまには書くのもいいものだろうが、
メールや、このブログもだが、文字は打つものとなり、
それでも、こうして文字を発信できる時代となった。
打った文字が、すぐに伝えられる。
すごい時代だよね。
飲み込んできた言葉たちが、やっと伝えられるようになり、
私の世界は、ちょっといい感じに変わってきた。
って、このブログの内容をよくご存じの方々からすれば、
こんな事を伝えたいのかよという記事が多くて、恐縮ですが、
毎度、お付き合いくださり、ありがとうございます。
うんこさん?
あれ?
おたま?
お前、いつの間に入れるようになったんだ?
寛いでんな~
それ、うんこのお気に入りなんだけどな~
うん、そういう事するためのもんじゃないんだ
普通に寛げや!
数分後
うんこ「まったく油断も隙もあったもんじゃないわ」
うんこのお顔ハウスは、やっぱり、うんこが一番似合うな。
ままん、ありがとう。
本当に、ありがとうございます。