うめと愉快な仲間達

うめから始まった、我が家の猫模様。
犬好きな私は、チワワの夢を見ながら、
今日も癖が強めの猫達に振り回される。

柔軟な姿勢の中の強い芯

2019年03月17日 | よねの闘病記録

昨日は、よねの通院日だった。

 

おはようございます。

よねが輸液治療で通院するようになってから、

1年以上、続いている。

最初は、血液検査の数値を見て、

私は、すぐに覚悟を決めたが、

その覚悟も薄らいできている、今日この頃だ。

かかりつけの動物病院の院長とは、長い付き合いだが、

院長は、うめの時もきくの時も、

いくら聞いても、余命を宣告した試しがない。

「もう、近い気がするんだけど」と飼い主が言っているのに、

「そんな事ないない。まだ大丈夫だって」と励ます院長だ。

 

いやね、こっちとら励ましなんて要らんのよ。

院長の経験で、なんとなーく分かるでしょ?

そこんとこを、客観的に知りたいわけさ。

 

闘病に付き合う飼い主は、段々と苛立って来る。

切羽詰まってくるし、覚悟もしたいし、混沌としてくる。

それでも、院長は、揺るがなく励ましてくる。

今なら、その理由が分かる気がする。

生きている限り、その命を諦める権利は、誰にもないという事だ。

諦めるのは、死んだ後にすればいいじゃないか。

かといって、積極的な医療を薦める訳ではない。

ただ、純粋に、命の鼓動に合わせて寄り添う事。

今の鼓動に合わせた手助けをする事。

どんな姿であっても、鼓動がある限り、その鼓動に耳を傾けろ。

 

院長は、こういう事は何も言わないが、

きっと、こういう事なのだろうと思っている。

だけど、聴診器で鼓動を聞きながら、

おしゃべりしてて、よねの鼓動は聞こえるのか?とツッコみたくなる訳だ。

あれ?私、勝手に院長を過大評価しんのかな?っと、ふっと揺らぐ。

 

院長は、シンプルな人だ。

はばかることなく「可哀そう」という言葉を使う。

例えば、野良猫が車に轢かれて、可哀そうという。

養豚場の豚が殺処分されるのを、可哀そうという。

様々な事情や感慨をとっぱらって、可哀そうというのだ。

私は、何十年もの間、どんな動物でも断らずに懸命に診てきた院長の、

「可哀そう」という言葉に、なぜか安堵する。

 

よねさんや?

君は、まだ大丈夫そうだな?

ぐねっと折れてるけど、大丈夫なのか?

 

ん?まだ折れる?

 

おぉぉ~、大丈夫か~?

 

よね「なにが?」

いや、何がって・・・

 

我が家の軟体ナンバーワンは、

実は、おたまではなく、君なのでは?

 

おたま「あれを上回る技・・・」

いやいや、無理すんなよ~