昨日は、よねの通院日だった。
おはようございます。
よねが輸液治療で通院するようになってから、
1年以上、続いている。
最初は、血液検査の数値を見て、
私は、すぐに覚悟を決めたが、
その覚悟も薄らいできている、今日この頃だ。
かかりつけの動物病院の院長とは、長い付き合いだが、
院長は、うめの時もきくの時も、
いくら聞いても、余命を宣告した試しがない。
「もう、近い気がするんだけど」と飼い主が言っているのに、
「そんな事ないない。まだ大丈夫だって」と励ます院長だ。
いやね、こっちとら励ましなんて要らんのよ。
院長の経験で、なんとなーく分かるでしょ?
そこんとこを、客観的に知りたいわけさ。
闘病に付き合う飼い主は、段々と苛立って来る。
切羽詰まってくるし、覚悟もしたいし、混沌としてくる。
それでも、院長は、揺るがなく励ましてくる。
今なら、その理由が分かる気がする。
生きている限り、その命を諦める権利は、誰にもないという事だ。
諦めるのは、死んだ後にすればいいじゃないか。
かといって、積極的な医療を薦める訳ではない。
ただ、純粋に、命の鼓動に合わせて寄り添う事。
今の鼓動に合わせた手助けをする事。
どんな姿であっても、鼓動がある限り、その鼓動に耳を傾けろ。
院長は、こういう事は何も言わないが、
きっと、こういう事なのだろうと思っている。
だけど、聴診器で鼓動を聞きながら、
おしゃべりしてて、よねの鼓動は聞こえるのか?とツッコみたくなる訳だ。
あれ?私、勝手に院長を過大評価しんのかな?っと、ふっと揺らぐ。
院長は、シンプルな人だ。
はばかることなく「可哀そう」という言葉を使う。
例えば、野良猫が車に轢かれて、可哀そうという。
養豚場の豚が殺処分されるのを、可哀そうという。
様々な事情や感慨をとっぱらって、可哀そうというのだ。
私は、何十年もの間、どんな動物でも断らずに懸命に診てきた院長の、
「可哀そう」という言葉に、なぜか安堵する。
よねさんや?
君は、まだ大丈夫そうだな?
ぐねっと折れてるけど、大丈夫なのか?
ん?まだ折れる?
おぉぉ~、大丈夫か~?
よね「なにが?」
いや、何がって・・・
我が家の軟体ナンバーワンは、
実は、おたまではなく、君なのでは?
おたま「あれを上回る技・・・」
いやいや、無理すんなよ~