昔々のことだ。
かずこの実家に、家族で泊まりに行った日のこと。
こんばんは。
年に一度程度しか帰省しなかった訳だから、
幼い私にとっては、3~4度目の慣れない他人の家としか感じなかった。
古い長屋造りのカズコの実家は、
家中、祖父手作りのかぶら寿司の匂いが充満していた。
子供の私にとっては、あの独特な匂いは食欲をそそる匂いでは無かった。
大人たちは、それをつまみに酒を酌み交わし、
私と姉は、ひたすら黙って座っているだけだった。
祖父も祖母も、私達子供らに頻繁に話しかけることもせず、
ただ静かに、かずこやその姉妹のかしましい会話を聞いていた。
なんにもない田舎だ。
辺りを見渡せば田んぼ、遠くへ目を移せば山に囲まれていた。
夜になれば、外から虫の音やカエルの鳴き声が響く。
大人たちの笑い声と外の音が混じり合い、
私はまるでトランス状態のようになり、無の境地で座っていた。
はっと我に返った頃、
大人たちは、すっかり酔いつぶれて雑魚寝状態だった。
これこそまさに、トランス後の成れの果てのような有様だ。
その隅に、祖母が布団を敷いて、私達に寝るよう促した。
明かりが消えた慣れない部屋は、
摺りガラス越しの月明かりに青く照らされている。
それでもなお、かぶら寿司の匂いが鼻を刺し、虫の音とカエルの鳴き声は一層勢いを増す。
とても眠れる状態じゃない。
私は、そこら中に転がる大人を慎重に跨ぎながら、
おもむろに七輪が置かれた一角を目指した。
「あの座布団でなら眠れるかもしれない。」
祖母が、火の気のない七輪の縁を
肘掛け代わりにして座っていた、へたった座布団だ。
そして実際、私は座布団に座ってみた。
その時、背後から引き戸の擦れる音がした。
ビクっと、そのまま身を硬くしていると、誰かの声が聞こえた。
「眠れんのか?」
その声は、引き戸の擦れる音に似ていた。
恐る恐る振り返ると、そこには祖母が立っていた。
私は、素直に「うん」と頷けなかった。
無断で座布団に座ったことを後ろめたく感じ、
黙ったまま、更に身を硬くした。
祖母は、私の様子を伺おうともせず、音もなく真横に座り、
「ほれ、こっちおいで。」
と言って、私を自身の膝へ抱き寄せた。
まるで赤ん坊を抱くように膝の上に抱え、
私の背中をポンポンと軽く叩きながら、
「よーし、よーし」
と、かすれた声で、ずっと唱え続ける。
大音量だった虫の音やカエルの声は、
祖母の体に耳を塞がれたせいで遮られ、
その代わりに、ポンポンと叩く振動と祖母の声が、
私の体を溶かすように、じんわりと浸透していった。
あれから、私は眠ったのだろうか。
それは、不思議と覚えていない。
私の一生で、たった一度の思い出だ。
この思い出は、長い間、私を苦しめ続けた。
私の母親は、あんな事してくれない。
手を繋いで歩いたことさえ無かった。
カズコは、幼い私に触れられることさえ拒絶した。
「お前は堕ろすつもりやった。
なのに、意地汚くわしの腹にしがみついて
生まれてきよったんや。」
そう言ったカズコの目は、
本当に意地汚いものを見る目だった。
だから私は、ずっと私という存在を恥じてきた。
何をしていても後ろめたさが付き纏う。
この思考が、どうやっても消えない。
それなのに、あのたった一度の夜が恋しくて、
私は諦めきれず生きて来てしまった。
あの心地良さを知らずにいたら、
私はこんなに苦しまずに済んだんだ。
あれは呪いか・・・
なんの呪いだ?
もう忘れたい。
ところが最近、また不意に、あの夜を思い出した。
それは、興奮して取り乱すカズコの背中を撫ぜていた時だった。
私は、カズコに問いかけた。
「カズコさんのお母さんは、
どんな人だった?」
すると、怒りに強張っていたカズコの顔が緩んだ。
「ええ親やったで。
それはそれは優しい親やった。
わしは、どえらい可愛がられたんや。」
カズコは昔から、事あるごとに
在所へ帰りたいと嘆いて酔い潰れていた。
何がそんなに苦しかったのか、
カズコの心の内は私には分からない。
けれどボケてからのカズコは、両親の思い出話をする時、
まるで子供みたいな顔をするようになった。
さっきまで怒り狂っていたくせに、
両親へ思いを馳せる無邪気なカズコの姿を見ていたら、
私の体が溶けるようにじんわり温かくなっていく。
それは、あの夜感じた感覚と似ていた。
そのまま、しばらくカズコの背中を撫ぜていたら、
カズコの記憶に残る母親の姿と、
私の体に残る祖母の感触が、
「繋がった。」
そんな感覚にとらわれた。
あれは呪いなんかじゃない。
あれは、この瞬間のために祖母が掛けた祈りだ。
どんなに苦しくても生きてきたカズコと、
どんなに自分を恨んでも生き続けた私への祈りが、
今この瞬間、成就した。
私には、そう思えた。
ああ、これでいいのか。
私は、私で良かったんだ。
そう納得した時、私の心の中の、
長い間どうしても消せなかった自分への後ろめたさが、
消えていた。
さて、我が家は、あやの憂鬱が続いていた。
あや「のんちゃんの次はこいつだわ!」
あや「なに?何の用なの?まったくもう!」
あや「静かにジーッと見てられると戸惑うわ!」
そそ、どうしていいか、戸惑うよね〜。
あや「もう付き合ってらんない」
ほら、あやさん隠れちゃったぞ。
おたまは、何か言いなさいよ。
おたま「おばちゃんのスパッツの柄、なんか凄まじい。」
うっせーうっせー。