12月26日。日曜日。曇り。
寒い一日。
雪がちらつきました。
年末と言えば
聞こえてきます。
聞いてきました。
『歓喜の歌』
於:兵庫県立芸術文化センター
ベートーベンの『交響曲第九番』
合唱団150人(コロナのため通年の約半分)が『歓喜の歌』を力強く歌い上げました。
1824年に音楽の都ウィーンで初演されて以来、
『人類共通の芸術』と称されるほど親しまれてきた『お宝』です。
コロナ禍のため、演奏会が2年ぶりに開かれました。
クラリネットを吹かれた私の友人が、閉幕後にメールをくれました。
『久しぶりの第九で、合唱とソリストの音の渦の中で、酔いしれてしまい、
コロナのことなどすっかり忘れてしまいました。
来年こそは良い年になるように祈りましょう。』
私の座席は全員が臨める最前列でした。
二年ぶりの今年の演奏でした。
聴くだけではなく、歌う方、演奏する方なども含め、
今まで以上に、多くの人の人生に潤いを与えてくれました。
演奏が始まる前に・・・
指揮者の『挨拶』の中で、
『第九』の『4つの楽章』
各章の解説がありました。
指揮者・井村氏の個人意見でしょうか。
『第九』の4つの楽章にベートーベンが込めた『意味』
『第九』がウィーンで初演されたのは1824年5月7日。
当時54歳になっていたベートーヴェンは、
ずいぶん前から難聴に苦しんでおり、
「第九」の作曲時はほとんど耳が聞こえていなかった。
そんな『絶望』のどん底から這い上がって作曲した
ベートーヴェン56歳没前の、最後の交響曲です。
第1楽章:神の『天地創造』
第2楽章:神が『人間創造』、人を立てます。
第3楽章:『自然界』、山、川、等、純潔の世界を賛美する。
第4楽章:Ⅰ章~3章全体を否定しつつ、『新しい社会』への期待。
創造でもなく、『歓喜』、『喜び』である。
天上にある『楽園』、『死後の天上の喜び』がある。
ベートーヴェンが私たちに遺した重要な『メッセージ』です。
「歓喜の歌」が後に続く、第4楽章の始まり。
バリトン・ソリストが力強く歌いました。
「私たちの音楽はこれなのだ、さあ歌おう」
「勝利に突き進む英雄のごとく、自らの道を行け」
「抱擁と接吻を全世界に」「すべての人々は兄弟になるのだ」
私は、今日の『第九』からも学びました。
友愛や勇気にも共感すれば、
新しい年にもきっといいことがあるはずです!
感謝!感謝!
そして。
今日は12月26日。主の降誕第二日。
『聖家族 祝日』
『恵み豊かな神よ、
あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。』
『今日の集会祈願』
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスの両親は過越祭には 毎年エルサレムへ旅をした。
イエスが十二歳になったときも、
両親は祭りの慣習に従って都に上った。
祭りの期間が終わって帰路についたとき、
少年イエスはエルサレムに残っておられたが、
両親はそれに気づかなかった。
イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、
それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
三日の後、
イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、
話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
両親はイエスを見て驚き、母が言った。
「なぜこんなことをしてくれたのです。
御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
すると、イエスは言われた。
「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」
しかし、
両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
それから、
イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、
両親に仕えてお暮らしになった。
母はこれらのことをすべて心に納めていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。 』
ルカによる福音書 2章41-52節
十二歳のイエスは、
神の家である神殿で、『御父・神との関係』
を、両親に示します。
ナザレの『聖家族』
年三回の、ユダヤ人の義務としての、『エルサレムへの上京』を果たしていました。
イエス12歳のエルサレムへの上京の折・・・
※イエスは、祭りが終わった後も、一人で、エルサレムに残られました。
※両親は、見失ったイエスを三日間捜し、エルサレムの神殿の中で探し当てました。
※母マリアは、『お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』と言い、
※イエスは、『わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。』と答えます。
イエスは、12歳になった時に、『自分の道』を歩き始めました。
子供達は、12歳・中学生の頃から、『自分の道』を歩き始めるということです。
それは、親の考え方とは違うことがあります。
互いに理解し合えないときも、多々あります。
私たちも、
子どもの教育において、聖家族に倣い、
親子で、互いに許し合い、助け合い、忍び合い、学び合いたいですね。
祈りましょう。
『今日のアレルヤ唱』
アレルヤ、アレルヤ。
『神よ、わたしたちの心を開き、
あなたの子が語られることに心を向けさせてください。』
典礼聖歌 270番51 アレルヤ、アレルヤ。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
寒い師走となっています。
くれぐれもご自愛下さり、今年残り6日間を有意義にお過ごし下さい。 お元気で!