人生がすべてだから。
”人生を愛す”とは神を愛すること。』
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
※捕らわれている人に解放を、
※目の見えない人に視力の回復を告げ、
※圧迫されている人を自由にし、
※主の恵みの年を告げるためである。」
※目の見えない人に視力の回復を告げる。
※圧迫されている人を自由にする、
※主の恵みの年を告げる。
3月が始まりました。
今日は、
しばらく休んでいた『スケッチ』です。
『百合の花』
2月10日の『母の命日』から18日過ぎて
『献花』もしぼんできました。
『2021年の母の思い出』を『絵』に残しておきましょう。
『スケッチ』しておきました。
スケッチの時間は、2時間ほど、瞬く間に過ぎていきます。
それは、全く無になれる『静寂の時間』であり
私の場合は、全能者である神とつながる時間となります。
来年の再会の日まで・・・と、
スケッチをしながら
今日は、あの世とこの世で、母とおしゃべりでした。
母とも、つながる時間となりました。
今日は、ひさしぶりのスケッチで
穏やかな一日になりました。感謝!感謝!
そして。
今日は3月1日。四旬節第二月曜日。
『今日の入祭唱』
『わたしは安全な道を歩きます。 わたしを憐れみ、贖ってください。
わたしの足はまっすぐな道に立っています。 聖歌隊とともにわたしは主をたたえます。』
詩編 26章11&12節
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 イエスは弟子たちに言われた。
あなたがたの父が憐れみ深いように、
あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
人を裁くな。
そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
人を罪人だと決めるな。
そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
赦しなさい。
そうすれば、あなたがたも赦される。
与えなさい。
そうすれば、あなたがたにも与えられる。
押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」』
ルカ福音書 6章36-38節
私はこんな風に考えました。
イエス様の『新しい教え』は、
『人にしてもらいたいことを人にしてあげなさい』 又 『敵をも愛しなさい』
との『教え』です。
私たちは、どんな心持ちで、『新しい教え』 を実行できるでしょうか?
それは
『神の慈悲』について考えることにおいてです。
神様は、
すべての人に、すべてを無償で与えてくださるお方です。
『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる。』
お方なのです。 マタイ福音書 5章45節
そんな御父・神の優しさ・慈悲を思えば・・・”私も!” と感謝と勇気が湧いてくるでしょう。
神様は、そんな私たちの中で、必ず、働いてくださいます。 応援してくださいます。
更に。
今日は、イエス様は弟子たちに、更に、具体的な『愛の行動』、について話します。
裁くな。 人を罪人と決めるな。 赦しなさい。 与えなさい。
そうしなければならない『理由』は、
『あなたがたの父が憐れみ深いように、
あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。』
・・・との『イエスの言葉』に従うのです。
又。
『あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。』
あなたが 裁くのと同じ程度に、赦すのと同じ程度に、与えるのと同じ程度に、
お人もあなたを、裁き、赦し、与えてくれるのです。
こうも言えますね。
『相手は自分の鏡』と言われる通りですよね。
「周りの人の考えや表情、出来事は、全て自分が考えている事を反映している」 というもの。
私が笑えば相手も笑顔になる。
周りは全て自分を映しだす鏡なのですよね。
裁かなければ裁かれない。 赦せば赦される。 与えれば与えられる。
たとえ、お人が私を裁いても、赦さなくても、与えてくれなくても、
神様は、いつも、私を裁かず・赦し・与えてくださいます。
私たちは、
イエス様は、正しい人だけではなく、
罪人をも喜んで迎え入れてくださいます。
そんなイエス様に倣って、イエス様の鏡となって、
すべての人を、認めて、
真心から、すべての人の幸せと成功をお祈りしたいものですね。
『今日の奉納祈願』
『神よ、わたしたちの祈りをいつくしみをもって受け入れてください。
あなたに奉仕する恵みを受けたわたしたちが、世の誘いから解放されますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
暖かくなってきました。桜も開花です。春到来♡♡ お元気で!
今日は「品位」とは何だろう?
と考えさせられました。
今日・主日、私は、
用事のために奉仕できなくなった友人に代わって
『今日の第二朗読・パウロの言葉』の『聖書朗読奉仕』です。
お陰様で、ミサに出席です。
今日は、パウロは「品位」について語ったのです。
そこで、「品位」といえば平山邦夫を思い出しました。
私は『絵』が好きです。
『流沙淨土変』
平山邦夫 46歳の作品 1976年作品
平山邦夫は述べます。
『東洋画、日本画の世界では、絵の品格=「画品」ということを非常に重んじます。
それは「絵は人なり」と考えるからです。
『文は人なり』と言いますが、それと同じで芸術は人格の表現そのものなのです。』
『絵』の中で、
私は平山邦夫の作品が好きです。
同様に、
平山氏の品格の表われる
格調高い『文章』も好きです。
『絵に品があるかないかは、一本の線を見ればわかります。
どんなに技術的に優れた線を描いても、また、複雑な色合いの線を引いても、
そこに中身がないと品がなく、いやらしく見える。
人格がしっかりしていなければ、それは絵として出てしまう。
下品な人間には「品のない絵」しか描けない、ということが起こってしまうのです。』
ここまで読んで、
なるほどね。そんなものなのですね。 と感心する私です。
では。
平山氏の考える
『品各ある人物』とはどういう人なのか。
『インドでスケッチをしていたときのことです。
朝、一本の大樹の下に一人の老人が座っていた。
東から昇った太陽でできた西側の陰のところに西の方向を向いて座っているのです。
一日のスケッチを終え、夕方になってそこを通りがかると、
今度は太陽が西に傾いているので、その老人は東側の陰に東を向いて座っていた。
この老人の1日といえば、
樹の陰とともに一八〇度すこしずつ座り直すだけ。
何かを考えているのか、何も考えていないのか、時を超えて超然としている。
忙しく走りまわっている私と比べてどちらが幸福なのでしょうか。
この老人から、私は人間の品格ということを深く考えさせられたのです。』
聖書朗読奉仕の担当のお陰様で・・・
今日は、パウロの言葉の「品位」を読み、大いなる反省にも至り、
平山邦夫の本を読み返す機会が与えられたのです。
感謝!感謝!
そして。
今日は1月31日。年間第四主日。
今日は、使徒パウロは勧告します。
『今日の第二朗読 使徒パウロの言葉』
『皆さん、思い煩わないでほしい。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、
結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
このようにわたしが言うのは、
あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、
品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。』
コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章32-35節
使徒パウロは、
先週の勧告:『この世の有様は過ぎ去る』 コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章31節
そのことを確信しており、
未婚の人たちは結婚しないでいるのもよい、 という意見を持っていました。
それは、『世の事』に思い煩うことが少なくなる、からと考えたようです。
当時のギリシャの港町・コロントの町は、
人口55万人くらいで、その2/3は奴隷であったようで、商業と遊びの町として有名でした。
パウロは、
イスラエルとは全く異なる社会環境や文化の中で、
福音に従って生活する者が、
色々の困難や誤解に直面してもくじけず、確固とした信仰を持つようにと、励ますのです。
結婚することもしないことも、各自の自由であり、各自の選択であるが、
この世の有様は過ぎ去るのであるから、
主キリストに心も体も捧げることもよい。 と勧めるのです。
それは、
『品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。』
と考えたのです。
私はこんな風に考えました。
『品位』には、 『時を超えて超然としている』 と 『ひたすら』 が鍵かもしれません。
それは
絶対者の存在と共に、頭を垂れながらの二人三脚。 生かされていることに気づいて、謙虚に進む。
という生き方ではないでしょうか。
私たちは、
移り変わる現代の社会環境や文化の中で、
『品位ある生活』のために、どうすればよいのでしょう。
平山邦夫は、
「品位ある生活」とは、
「何事も「私心」なく、人に責任を転嫁することなく、礼儀正しく、
他人のこともよく理解しようとすることです。」 と言います。
これこそ、老若男女、どの国の方も、誰もが認める
「美しい品位ある 生き方」ですね。
それぞれの生活の場や環境の中で、
『品位ある日々』を送れるようになりたいものですね。
『今日の祈願』
『わたしたちの神である父よ、
心を尽くしてあなたに仕える喜びと、
すべての人を愛する恵みをお与えください。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
明日からは、新しい週、新しい月・二月が始まります。
コロナ感染予防に十分に気を付けながら、穏やかな始まりの日々でありますように。
『庭の水仙』
白色が清楚で、物静かなたたずまいです。
正月らしく高貴な紫色に映えます。
今年初めてのスケッチ
何を描きましょうか? 新年にふさわしい『水仙』を選びました。
週内にも『緊急事態宣言』再発令されるもようです。
一人一人の自粛がコロナ終息のための第一歩ですね。
ますますSTAY HOMEの日々が続きそうです。
今年はまじめにスケッチを続けてみましょうかしら。
今年も、私の『絵画』の趣味も、新しいスタートを切りました。
そして。
今日は1月4日。降誕節月曜日。
『今日の入祭唱』
『聖なる日がわたしたちを訪れた。
諸国の民よ、来て主を拝め。 偉大な光が地上に下った。』
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 イエスは、 ヨハネが捕らえられたと聞き、 ガリラヤに退かれた。
そして、 ナザレを離れ、
ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
ガリラヤ湖の船上から眺める 『湖畔の町カファルナウム』 2018年の巡礼時に撮影
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
は栄光を受ける。
暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に、光が輝いた。」
(イザヤ書 9章1節)
そのときから、
イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」 と言って、宣べ伝え始められた。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
そこで、 イエスの評判がシリア中に広まった。
人々がイエスのところへ、
いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、
てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、
これらの人々をいやされた。
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、
大勢の群衆が来てイエスに従った。』
マタイ福音書 4章12-17&23-25節
イエスは、『ヨハネが捕らえられた』 と聞き、ガリラヤに退かれました。
罪もなく、正しい人であるヨハネが捕らえられたのです。
その時、
イエスは同じ事が起こることを恐れて・・・
熱心に律法を勉強する人の多いエルサレムの町ではなく、
あまり律法や聖書を知らない人たちが多く、異邦人が多い、
ガリラヤ地方の湖畔の町カファルナウムに移り住みました。
それは、
イエス様が、
律法や聖書をあまり知らないで『暗闇』に住む人たちに、 『光』となるためでした。
まずは、『神からの良い知らせ=神の国の到来』 を伝えるためでした。
又
次には、『病人を癒す』 ためでした。
人々が、
『良い知らせ』を聞いて『悔い改め』ができ、 『病人の癒し』を見て『神の愛』を知り、
『信仰』が生まれることを、イエス様はお望みになったのです。
イエスの宣教活動の結果・・・
イエスが訪ね回る各地の人々に『信仰』が生まれ、
大勢の人がイエスに従ったのです。
私たちも、
イエス様には直接お会いできませんが、
聖書の中から
『ィエスの言葉』を聞いて、『イエスの行い』を見て、
神の愛を知り、『信仰』が生まれるように祈りたいですね。
『今日の祈願』
『全能の神よ、 あなたの恵みによって、
わたしたちがいつも力強く、 信仰に生きる者となりますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
皆様の御趣味は何ですか? コロナ禍の日々のストレスを趣味が軽減してくれますよね。
緊急事態宣言の中で賢く生きてまいりましょう。 お元気で!
母の日の 『花束』。 昨日の母の日の1週間前のプレゼント。
お嫁さんが、 "こんな時期、心明るくなりますようにと、早めに贈ります。” と。
『花の命は短し』 で・・・
目に焼き付けましょうと・・・ 『スケッチ』
今日。夕食後にチョイと。
20種類の花の一部のみ。
『スケッチ帳』に、 『息子夫婦の愛』 を納めました。
『Myスケッチ帳』は、
週一の 『食品買い出しDay 』 は、歩いて3分の近所の店で、火曜日。明日。
ところが、
『コーヒー豆』 が三日前に切れてしまった。
近所の店には、『My favorite coffee beans』 は売っていない。
申し訳ないことだと思いながらも、わがままで、今日の午後二時、コーヒー屋まで車を飛ばした。
本当に久しぶりの外出。 完全装備で、とても緊張しました。
ショッピングモール(5階建)は、コーヒー屋を含む1階の3軒が開いているだけで、他の全店は閉店していました。
客は、コーヒー屋は私一人。 ショッピングモール全体でも数人でした。
久しぶりのショッピングモールの変容を見て、驚きました。
嬉しかった。
沢山のお店が、内部事情は大変なことでしょうが、
『休業要請』 を実行していらした。
感謝します。
解禁になった暁には、私は、全店で一品づつ買いましょう!
約束します。
家に戻りまして、
車から降りてほっ・・・ 『近所の道』
Stay homeが私には向いているようです。
そして。
今日も、医療従事者の皆様に、そして 沢山の休業の店の皆様に、心からの感謝を申し上げます。
『緊急事態宣言』
STAY HOME =不要不急の外出禁止。みんなの命を守りましょう。= お家にいましょう!
日本中一致団結。 頑張りましょう。
そして。
今日は5月11日。復活節第五月曜日。
『今日の入祭唱』
『主はよい牧者、
羊を守り、群れのために命を捧げられた。 アレルヤ。』
そして。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、
わたしを愛する者である。
わたしを愛する人は、
わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
わたしを愛する人は、
わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
わたしを愛さない者は、
わたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、
わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
しかし、 弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」』
ヨハネ福音書 14章21-26節
イエスは、弟子たちに、 『約束』 なさいました。
『私は、復活して、御父・神のもとへ帰りますが、又戻って来ます。』 と。
それは。
すべての人と 『共にいる』 ための 『新しい方法』 でした。
姿は見えませんが、
イエスは 『聖霊』 において、一緒にいる。 ということでした。
生前は・・・
イエス様は、見えるお姿で、直接、お話ししながら、弟子たちを教え導きました。
復活後は・・・
見えない霊なる、『聖霊』 を弟子たちに送ってくださるのです。
『聖霊』が、 弟子たちを導き、弟子たちにイエスが話した言葉を思い出させ、理解させるのです。
神が、イエスの言葉と行いにおいて、御自分を表わしてくださったことを、
『聖霊』が、弟子たちに悟らせるのです。
『聖霊』はイエスとは違います。
生前のイエスは、聖霊に導かれて、この世の生活をなさいました。
弟子たちも、イエスの復活後は、聖霊に導かれるのです。
では、
『聖霊』とは何か?
『聖霊』とは、神を啓示する 『神の霊』 です。
『神の言葉』、『生ける御言葉』であるキリストを、わたしたちに知らせるのです。
キリストを「明らかにする」 『真理の霊』 なのです。
『聖霊』は、 御父や御子と同一実体のものであり、『真の神』 です。
『三位一体の神』
聖三位の隠されたいのちにおいても、
世界に向けられた無償の愛にいても、
三者は切り離すことはできません。
御父が御子をお遣わしになるときは、つねに聖霊もお遣わしになります。
両者は区別されますが、分離されえません。
確かに、『キリストは見えない神の見える姿』 であるということは明らかですが、
そのキリストを啓示するのは、『聖霊』 なのです。
『カトリック教会のカテキズム』より
イエスを愛する人は、神に愛されるのです。
そして。
神とイエス聖霊は、イエスを愛する人の所に来られ、一緒に住むのです。
ですから、
イエスの姿が見えるということは、もう必要ではないのです。
今を生き、今を生活する私たちは、聖霊に直接導かれるのです。
見えないお姿の聖霊で、父と子とご一緒に、私たちも一体なのです。
『今日の祈願』
『永遠の父よ、
約束された聖霊を待ち望むわたしたちの祈りを聞き入れてください。
移り変わる世界にあって、わたしたちが心を一つにして愛の掟を守り、
いつも真の喜びに生きる事ができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
コロナ終息の光が見えてきたような『制限の緩和』が発表されています。
それでも、今しばらくは、出来る限りの『外出自粛・STAY HOME』を続けたいものですね。
It could save lives。 お元気で!
台風で、朝のランニングと教会への外出だけ。
台風接近で、ミサ参加者は、いつも(2~300人位)の、1/3?
司祭は、『ミサ参加は、信徒の都合によるものではない、神の御心である。』と言われた。
家に閉じこもっている。アトリエ(兼書斎)で、読書をしながら、ゆったりした時間を過ごした。
アトリエの友人たち・3人。
理知的な女性でした。
私の描いた『友人たち』が、私を見つめている。 話しかけてくる。
モデルの人たちを描いた時に、互いに交わしたおしゃべりが、よみがえってくる。思い出す。
美しい人でした。
美しさも、それぞれの年代の美しさがある。としみじみ思ったものです。 年代らしく美しくありたいものです。
また画いてみようかな? 『肖像画』
美しさにも、絵を描くことにも、孤高の気高さが要求される。 厳しいものである。
堂々とした人でした。
潔いショートカットとミニスカートが、小気味好い女性でした。
堂々とした姿に、彼女のすべてが語られているように思えた。 『堂々』を描き出したかった私でした。
壁にかけられた『3人の女性』は、画いた『私自身』が描がかれているのかもしれない。と思ってみたり。
そして。
今日は9月17日。年間第二十四主日。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『ペトロがイエスのところに来て言った。
使徒ペトロの肖像画
「主よ、兄弟たちがわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」』
マタイ福音書 18章21-35節
お人を赦すことは、どうして、難しいのでしょう。
傷つけられたことを許せないということは、自分のプライドが邪魔するからでしょうか?
使徒ペトロは、
”人はきっと、2~3回しか許せないでしょう。”
でも、私は、”寛大に、7回までは赦すことにしましょう。” と考えたのかもしれません。
イエスは、
”私は、今まで、あなたたちを七の七十倍までも赦しているのですよ。 私に倣う者になりなさい。” とお考えだったのでしょう。
神は、
その独り子・イエスを、私たちの罪の『贖罪』としてお与えくださるほどに、無限の回数で、私たちを赦してくださるのです。
お人を赦すことは、どうして、難しいのでしょう。
私たちは、
『神の慈悲』=私たちの罪を無限に許す慈悲=を理解した時に、
お人に対して慈悲深い人になれるのです。 七の七十倍までも赦せる者になれるのです。
何事も、人との比較で決めるのではなく、神と私の対峙で決めるのです。
まず、赦してみる!
赦すことで、自分の内面に、『心の充実感』を味わうのではないでしょうか?
『神の慈悲』 や 『心の充実感』の体験が、私たちを『赦す人』に変えて下さるはずです。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
皆様のお住まいのところの台風状態はいかがでしょうか? ご安全に! 被災地の一日も早い復興をお祈り申し上げます。
***********
9月17日。今日の走距離 15㎞。
5時。ラン開始。 台風前の静けさ。21度。雨無し。風強く、向かい風はしんどい。ひたすら前進あるのみ。
9月の運動: ランニング142㎞(今週:15㎞。今週目標:63㎞) 階段上り下り 0回 登山 0回
今日は、ユダヤ民族の3番目(アブラハム、イサク、ヤコブ)の族長・ヤコブの生涯の検証です。
興味津々です
ヤコブは、
天使と格闘したことから
神の勝者を意味する『イスラエル』 (「イシャラー(勝つ者)」 「エル(神)」) の名を与えられる。
これが後のイスラエルの国名の由来となった。
双子の兄エサウをだまして『長子の祝福』を得たため、
兄から命を狙われることになって逃亡する。
逃亡の途上、天国に上る階段の夢:『ヤコブの梯子』を見て、
自分の子孫が偉大な民族になるという『神の約束』を受ける。
ハランに住む、母方の伯父ラバンのもとに身を寄せ、20年間、ラバンに仕える。
その娘・レアとラケルと結婚。 そして 側女:ビルハとジルパ の4人の間に、
娘1人と12人の息子をもうけ、財産を築いて、独立する。
その息子たちが『イスラエル十二部族の祖』となる。『神の約束』の成就です。
そして。
今日は7月11日。年間第十四火曜日。
『今日の第一朗読 ヤコブと神との決闘』
聖書でヤコブの生涯が語られます。
逃亡20年後。
兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヨルダン川支流のヤボク川にさしかかりました。
『その夜。ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れて、ヤボクの渡しを渡った。
皆を導いて川を渡らせ、持ち物を渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。
そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。』
『天使とヤコブの格闘』 4人の妻が見守る ゴーギャン作品
ここで一休み。
美術作品: 『天使とヤコブの格闘』 鑑賞いたしましょう。
このテーマで、『天使とヤコブの力のこもった格闘の様子』が描かれます。
ドラクロア作品。
『ヤコブの天使との格闘』
『ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、
ヤコブの股の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。』
モーリス・ドニ (象徴主義) の作品
『天使と格闘するヤコブ』
『ナビ派』の画家モーリス・ドニ(1870-1943年)は、抒情的な表現を用いました。
二人の人物は、闘うというより、まるで踊っているように見えます。
どちらが天使かヤコブか? 二人は女性のような可愛らしさです。
『ナビ派』のドニの興味は、
聖書の物語を描くことではなく、彼の目指したものは、『魂の世界』の表現だったのです。
「ナビ」とは、「預言者」を意味するヘブライ語です。
『ナビ派』は、色と線を崇拝し、美術界の新しい風たらんとして結成されたのです。
彼らは、自然の模倣をやめ、美術家の『主観的感情』をこそ表現すべきだと考えた、『新派』なのです。
聖書の言葉は続きます。
『「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
その人は言った。
「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘って勝ったのだからだ。」
と言って、ヤコブをその場で祝福した。』
これも、『神の約束』の成就です。
以上。 創世記 32章23-33節
めでたし!めでたし!
一説には、
『天使徒ヤコブの格闘』 は 『ヤコブ自身の自我との闘い』であったと言われます。
天使に関節を外されたとき、ヤコブのかたくなな心も砕かれたということなのかもしれません。
初期キリスト教美術においては、ヤコブの相手は『神自身』でした。
後には、
『天使』として描かれるようになり、
『格闘』 は 『地上におけるキリスト教徒の魂の苦闘』 を象徴するものとされました。
晩年。
ヤコブは、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、
数奇な人生を送ってエジプト王・ファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、
やがて一族をあげてエジプトに移住した。
エジプトで生涯を終えたヤコブは、遺言によって故郷・カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られました。
めでたし!めでたし!
以上。今日は、Wikipediaの資料から、『ヤコブの生涯』の検証でした
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
人の数だけ、色々の人生がありますね。 先人達の人生に学びながら、自分なりの『美しい人生』を全うしましょう!
*********
7/11。5時。 早朝。野良猫にエサをあげる御婦人がいる。どこから来るのか野良猫が群がってくる。10㎞。
7月の運動: ランニング 72㎞ 階段上り下り 0回 登山 1回
友人は、美術学校卒業の、画家。
今日は友人の『個展 墨 彩展』に行ってきました。
『ぶどう』
和紙に墨と色素材で画く。
消え入りそうな『淡い画相』に、作者の雰囲気が出る。
私は、一日一時間スケッチの、素人画家。
昨年の我が家 『葡萄 赤ちゃん』
パステル画。
粗野な『堅いつぼみ姿』に、初々しさを現した。
今日も『学び』がありました。
一人で画いていると、自分の枠の中に閉じこもり、画法に偏りが出てくる。
私の荒削りの画法も、友人の繊細さと比較してはじめて、深みが出てくる。
何事も、専門馬鹿に突き進みながらも、時に自分流を開放して、さらに一歩前進です。
そんな風に思えた今日でした。
そして。
今日は6月21日。年間第十一水曜日。
『今日の第一朗読 使徒パウロの言葉』
『惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、
惜しまず豊かに種まく人は、刈り入れも豊かなのです。』
『種まく人』 巨匠・ミレー作品
『各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。
喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あなたがたに種を与え、それを増やし、あなた方の慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。』
コリントの信徒への手紙 9章6-11節
『愛の種』を、惜しまずに、豊かにまき散らす、『ミレーの青年農夫』
すがすがしく、解放され、気前よく、素敵な青年ですよね。イエスの存在ですね。
『青年の愛の種』を増やし『慈しみの実』に成長させてくれる、背後からの太陽の暖かさ。
いつも、共に一緒に、見守って下さる、神の存在ですね。
豊かに種まく人は、『すべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになる』 のです。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
画家は画家の、素人は素人の、あなた様はあなた様の、育て上げた独特の『種』がありますよね。
種・愛を惜しみなく与えながら・・・葡萄のように、素敵な実をつけてまいりましょう!