3月30日。火曜日。曇り。
一年の終わりの大晦日の夕食は、
家族にとっての一年の締めくくり
『最後の晩餐』ですね。
12月31日・・・
我が家では・・・ 『新年の準備の餅つき』
5軒分。150個。
『最後の晩餐』 前の 『年の最後の年中行事』です。
昨年の『最後の晩餐』は、コロナ禍のため家族の集合もなし、私たち親二人だけでの晩餐でした。
今年の『最後の晩餐』は、家族全員集合、にぎやかな晩餐でありますように。
今日も、コロナ終息を願って、ひたすら、祈ります。
そして。
今日は3月30日。受難の火曜日。
『今日の入祭唱』
『貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が、わたしに逆らって立ちました。』
詩編 27章12節
『今日の福音 イエスの最後の晩餐』
『そのとき、 イエスは、弟子たちとともに 食事の席についておられたが
『最後の晩餐』 ダ・ヴィンチ作品
心を騒がせ、断言された。
「はっきり言っておく。
あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは、 だれについて言っておられるのか察しかねて、 顔を見合わせた。
イエスのすぐ隣には、 弟子たちの一人で、
イエスの愛しておられた者(ヨハネ) が食事の席に着いていた。
シモン・ペトロは この弟子に、
だれについて言っておられるのかと尋ねるように 合図した。
その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、それはだれのことですか」 と言うと、
イエスは、 「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」 と答えられた。
金袋を手に・・・ 『内通の報酬を受け取るユダ』 ジョット作品
ユダだけが仲間から外れて外を向いているのは、『罪』の状態を表わすのでしょうか?
それから、パン切れを浸して取り、
イスカリオテのシモンの子ユダ にお与えになった。
『イスカリオテのユダ』 ダ・ヴィンチ作品
ユダがパン切れを受け取ると、 サタンが彼の中に入った。
そこでイエスは、 「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」 と彼に言われた。
座に着いていた者はだれも、 なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
ある者は、 ユダが金入れを預かっていたので、
「祭りに必要な物を買いなさい」 とか、
貧しい人に何か施すようにと、 イエスが言われたのだと思っていた。
ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。
「今や、 人の子は栄光を受けた。
神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、
神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。
しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
あなたがたはわたしを捜すだろう。
『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』
とユダヤ人たちに言ったように、
今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
シモン・ペトロがイエスに言った。
「主よ、どこへ行かれるのですか。」
『悔悛する聖ペトロ』 エル・グレコ 作品
イエスが答えられた。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、
後でついて来ることになる。」
ペトロは言った。
「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。
あなたのためなら命を捨てます。」
イエスは答えられた。
「わたしのために命を捨てると言うのか。
はっきり言っておく。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。
2018年巡礼時に
ペテロが三度イエスを否認した場所に立つ・・・『鶏鳴教会』:『入り口扉』
以上。 ヨハネ福音書 13章21-33&36-38節
『最後の晩餐』
イエス様は、 約3年間共に生活をしてきた大切な12人の弟子たちと共に、
この世での『最後の晩餐』をなさいました。
『最後の晩餐』により、 『イエスの時』 が来たのです。
イエスが、 『人類の贖罪』 となって
『苦しみ』を受ける『時』です。
『時』は、人類の始まりの時から神が計画なさった、『救い』の成就 の『時』です。
イエスが、父である神に『栄光』をお与えになり、
イエスご自身も、神から『栄光』をお受けになるのです。
『時』は、イエスが敵に勝ち、愛が憎しみに勝ち、イエスが罪に勝たれる、『時』です。
『希望』が生まれる『時』なのです。
ヨハネ福音書では、イエスがイスカリオテのシモンの子ユダにパン切れを渡し、
イエスが『苦しみ』を受けることを決心なさった『時』に、
イエスが『勝利』なさった と、『イエスの時』 を教えます。
もう一つ。
私は考えました。
『最後の晩餐』により、 『希望の時』 が来たのです。
イエスの最後の晩餐の席での『予言』通り・・・
イエスが逮捕、連行された後、
ペテロはイエスの仲間であることがばれるのが恐ろしくなり、
三度もイエスを知らないとウソを言いました。
を手に震える思いの私でした。
鶏鳴教会入り口扉に描かれた『イエスとペトロ』
『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』
と、ペトロに予言するイエスです。
ペトロは、最後の晩餐の席で、
イエスのために『自分の命』を捧げることを誓いました。
しかし実際には、
ペトロは、イエスの『予言』通りに、
『イエスを知らない」と、三度、イエスを否みました。
イエス様が、 『自分の命』を捧げたのです。
『イエスの愛』が、 ペトロ=人類の『弱さ』 に勝利し・・・
『十字架』 が 『イエスの栄光』 となり、
最後まで『従順』であったイエスは、 御父に『栄光』 をお与えになりました。
そして、
神様は、 『イエスの従順』:『イエスの十字架』 に応えて、
イエスを『復活』させて、イエスに『栄光』をお与えになったのです。
神様は、 『イエスの時』に・・・
人類に、 『神のみ旨』である『神の許し』 を約束なさったのです。
人類が、 ペトロ同様に、自分の弱さと罪を認めて、 『悔悛』するなら、
神様は、愛をもって、一人ひとりを許されるのです。
『イエスの復活』 こそが、 私たちの『希望』 です。
『イエスの犠牲』により、
神が、もう決して、人間を捨てることがない。
私たちは、もう決して、神を恐れることはない。
私たちは、人生で『愛神愛隣』を実行しながら、自分の『復活』の『時』を待つのです。
私たちも、
神を恐れる必要はありません。
神様には賛美と感謝があるのみです。
神様は、いつも、私たちに呼びかけられています。
私たちは、回心して、
神のもとにいつも戻りたいものですね。
『今日の祈願』
『万物の造り主である神よ、
あなたの『最後の晩餐』のかたどりである『ミサ』に預かるあなたの家族が、
永遠の喜びに満たされますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
一日三回の食事を、心豊かに、おいしく、頂けますように。 お元気で!
一年の終わりの大晦日の夕食は、
家族にとっての一年の締めくくり
『最後の晩餐』ですね。
12月31日・・・
我が家では・・・ 『新年の準備の餅つき』
5軒分。150個。
『最後の晩餐』 前の 『年の最後の年中行事』です。
昨年の『最後の晩餐』は、コロナ禍のため家族の集合もなし、私たち親二人だけでの晩餐でした。
今年の『最後の晩餐』は、家族全員集合、にぎやかな晩餐でありますように。
今日も、コロナ終息を願って、ひたすら、祈ります。
そして。
今日は3月30日。受難の火曜日。
『今日の入祭唱』
『貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が、わたしに逆らって立ちました。』
詩編 27章12節
『今日の福音 イエスの最後の晩餐』
『そのとき、 イエスは、弟子たちとともに 食事の席についておられたが
『最後の晩餐』 ダ・ヴィンチ作品
心を騒がせ、断言された。
「はっきり言っておく。
あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは、 だれについて言っておられるのか察しかねて、 顔を見合わせた。
イエスのすぐ隣には、 弟子たちの一人で、
イエスの愛しておられた者(ヨハネ) が食事の席に着いていた。
シモン・ペトロは この弟子に、
だれについて言っておられるのかと尋ねるように 合図した。
その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、それはだれのことですか」 と言うと、
イエスは、 「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」 と答えられた。
金袋を手に・・・ 『内通の報酬を受け取るユダ』 ジョット作品
ユダだけが仲間から外れて外を向いているのは、『罪』の状態を表わすのでしょうか?
それから、パン切れを浸して取り、
イスカリオテのシモンの子ユダ にお与えになった。
『イスカリオテのユダ』 ダ・ヴィンチ作品
ユダがパン切れを受け取ると、 サタンが彼の中に入った。
そこでイエスは、 「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」 と彼に言われた。
座に着いていた者はだれも、 なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
ある者は、 ユダが金入れを預かっていたので、
「祭りに必要な物を買いなさい」 とか、
貧しい人に何か施すようにと、 イエスが言われたのだと思っていた。
ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。
「今や、 人の子は栄光を受けた。
神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、
神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。
しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
あなたがたはわたしを捜すだろう。
『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』
とユダヤ人たちに言ったように、
今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
シモン・ペトロがイエスに言った。
「主よ、どこへ行かれるのですか。」
『悔悛する聖ペトロ』 エル・グレコ 作品
イエスが答えられた。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、
後でついて来ることになる。」
ペトロは言った。
「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。
あなたのためなら命を捨てます。」
イエスは答えられた。
「わたしのために命を捨てると言うのか。
はっきり言っておく。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。
2018年巡礼時に
ペテロが三度イエスを否認した場所に立つ・・・『鶏鳴教会』:『入り口扉』
以上。 ヨハネ福音書 13章21-33&36-38節
『最後の晩餐』
イエス様は、 約3年間共に生活をしてきた大切な12人の弟子たちと共に、
この世での『最後の晩餐』をなさいました。
『最後の晩餐』により、 『イエスの時』 が来たのです。
イエスが、 『人類の贖罪』 となって
『苦しみ』を受ける『時』です。
『時』は、人類の始まりの時から神が計画なさった、『救い』の成就 の『時』です。
イエスが、父である神に『栄光』をお与えになり、
イエスご自身も、神から『栄光』をお受けになるのです。
『時』は、イエスが敵に勝ち、愛が憎しみに勝ち、イエスが罪に勝たれる、『時』です。
『希望』が生まれる『時』なのです。
ヨハネ福音書では、イエスがイスカリオテのシモンの子ユダにパン切れを渡し、
イエスが『苦しみ』を受けることを決心なさった『時』に、
イエスが『勝利』なさった と、『イエスの時』 を教えます。
もう一つ。
私は考えました。
『最後の晩餐』により、 『希望の時』 が来たのです。
イエスの最後の晩餐の席での『予言』通り・・・
イエスが逮捕、連行された後、
ペテロはイエスの仲間であることがばれるのが恐ろしくなり、
三度もイエスを知らないとウソを言いました。
を手に震える思いの私でした。
鶏鳴教会入り口扉に描かれた『イエスとペトロ』
『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』
と、ペトロに予言するイエスです。
ペトロは、最後の晩餐の席で、
イエスのために『自分の命』を捧げることを誓いました。
しかし実際には、
ペトロは、イエスの『予言』通りに、
『イエスを知らない」と、三度、イエスを否みました。
イエス様が、 『自分の命』を捧げたのです。
『イエスの愛』が、 ペトロ=人類の『弱さ』 に勝利し・・・
『十字架』 が 『イエスの栄光』 となり、
最後まで『従順』であったイエスは、 御父に『栄光』 をお与えになりました。
そして、
神様は、 『イエスの従順』:『イエスの十字架』 に応えて、
イエスを『復活』させて、イエスに『栄光』をお与えになったのです。
神様は、 『イエスの時』に・・・
人類に、 『神のみ旨』である『神の許し』 を約束なさったのです。
人類が、 ペトロ同様に、自分の弱さと罪を認めて、 『悔悛』するなら、
神様は、愛をもって、一人ひとりを許されるのです。
『イエスの復活』 こそが、 私たちの『希望』 です。
『イエスの犠牲』により、
神が、もう決して、人間を捨てることがない。
私たちは、もう決して、神を恐れることはない。
私たちは、人生で『愛神愛隣』を実行しながら、自分の『復活』の『時』を待つのです。
私たちも、
神を恐れる必要はありません。
神様には賛美と感謝があるのみです。
神様は、いつも、私たちに呼びかけられています。
私たちは、回心して、
神のもとにいつも戻りたいものですね。
『今日の祈願』
『万物の造り主である神よ、
あなたの『最後の晩餐』のかたどりである『ミサ』に預かるあなたの家族が、
永遠の喜びに満たされますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
一日三回の食事を、心豊かに、おいしく、頂けますように。 お元気で!