NHK『大河ドラマ』 =主人公たちの人生を知り、学び、追体験してみたり、の一年間=
・・・大好きな私です
新年の『大河ドラマ』が始まる頃に =主人公が活躍した現地に赴き、事前現地調査= 私の年中行事です。
・・・『新大河ドラマ』を観る私としての、『事前予習』です。
2013年大河ドラマは、『八重の桜』
・・・当然の
『事前予習現地調査』 を実行しました。
2014年大河ドラマは、
『軍師・黒田官兵衛』
・・・今日・11月26日・深秋の京都。 京都現地を『事前予習』してきました。
『事前予習』の15年来の相棒は、京都と歴史の生き字引の京都学博士。 二人旅です。 歩く!歩く!
15年来・・・
二人は、京都(たまに奈良もあり)散策でのみで、再会をするのです
。 素敵でしょ!
今日も
まずは・・・
「お久しぶり!」。 今日までの話で一ト時・・・
『虎屋菓寮 京都一条店』
美しい紅葉の庭
眺めながら・・・ 虎屋発祥の店です。
季節の果物を頂戴しました。 『リンゴ』
切ってみると・・・ ぎっしり詰まった蜜。
美味!
すばらしい!
そうなんです。
とらや。 『上生菓子とお抹茶』
とてもおいしゅうございました!
1250円
京都の雅さも味わいました
いよいよ
『黒田官兵衛・考高』 の研究の始まりです。
『
機転の利く・賢い武将・黒田官兵衛 の人生』
播州時代:
天文15年・1546年12月22日。 467年前。:
播磨国の姫路で誕生。
永禄5年・1562年。 16歳:
(現在の姫路市東部を中心に)播州平野に勢力を持っていた
戦国大名・小寺政職の近習となる。 初陣です!
永禄10年・1567年。21歳。
父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪で養女の光(てる)を、正室に迎え、
姫路城代となった。 結婚です
永禄12年・1569年8月。 23歳。
赤松政秀が、織田信長からの指令を受け、3,000の兵を率いて、官兵衛の姫路城に、攻め込んでくる。
が・・・奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、
織田信長軍の撃退に成功! 。 実力を発揮していきます。
しかし・・賢く・・
天正3年・1575年。 29歳。
信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君・小寺政職に、
織田氏への臣従を進言する。
7月・・・岐阜城で、羽柴秀吉の取次により、
信長に謁見。 信長の忘れられない印象を、持ったことでしょうね?
さらに年明け・・・小寺政職にも、京で謁見させる。
天正5年・1577年5月。 31歳。
小早川隆景の水軍の将、5,000の兵で、播磨に攻め込んでくる。
が・・・・官兵衛は、500の兵で。毛利・三木軍を退ける。
この戦いの後・・・たった一人の実子・長政(10歳)を、
官兵衛が仕える小寺家が織田方に帰順する証としての人質として、秀吉とねねの元へ送る。
戦略人・黒田です。
同年。5月10月
信長は・・・秀吉を、播磨に進駐させる。
官兵衛は・・・一族を姫路城の南西・国府山城に移し、居城であった、
姫路城を秀吉に提供する。 かしこ~い!
官兵衛自らは…姫路城・二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。
織田家臣時代:
ところが・・・
天正6年・1578年3月。 32歳。
別所長治が、信長に、反旗を翻す。 これに毛利氏が呼応する。 官兵衛は…1000の兵で、謀反を防ぎ退ける。
しかし、7月。
秀吉は…信長の指示に従い、上月城を放棄し、書写山まで撤退した。
更に
9月。
今度は、織田家の重臣の荒木村重が、信長に対して謀反を起こす。 信長への謀反が、次々と、計画されていきます。
この時、
官兵衛は…
主君の小寺政職も信長謀反に呼応しようとしたために、主君の小寺政職を説得しようとしたが、罠に落とされ、逆に、
幽閉される。
1年後。
官兵衛は…救出された
。 出獄後は、
小寺家と縁を切り、秀吉の軍師となる。
その後・・・
『厳しい幽閉生活』で、体と足を痛めた考高。 生涯、戦場は馬上のみとなった。 とか?
天正8年。1580年1月。 34歳。
秀吉・・・2年間の難攻の末にようやく、別所長治の三木城を 陥とした。三木城を拠点とする。
そして
秀吉は・・・姫路城を官兵衛に返えそうとする。 が、官兵衛は・・・逆に、秀吉に、
「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。
天正9年。1581年6月。 35歳。
秀吉・・・再び出兵。 官兵衛も加わる。
秀吉の種々作戦を秀吉に献策したのは官兵衛だった。 と言われます。
天正10年。1582年。 36歳。
織田側は、毛利氏の部将・清水宗治が守る、備中高松城を攻略する。
この際
秀吉は…巨大な堤防を築いて、水攻めの戦略をしたが、上手く水をせき止められなかった。
これに対し
官兵衛は…
秀吉に、船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように
献策し…
秀吉を成功させた 。
ここで一休み。
Coffee Break
京都は、神社仏閣が、とても多いですよね。
人は、すべての人が平等に迎える、最期の時を憂いますよね。 で・・・宗教も生まれる。 ということですかね。
立ち寄った 『妙顕寺』
『紅葉が真っ盛り』
寺に紅葉が映えます!
庭園に 『立て札』。 二つ。 何を意味するのかしら???
『山門不幸』
そのお寺の住職、その家族などが亡くなった時に掲げられる、『立て札』。
一般のお宅の 『忌中』 にあたるもの。
亡くなってから49日、あるいは長いところで一年位、掲げられています。 ですって。
もう一つ:
『御会式櫻』(おえしき櫻)
日蓮大聖人が御入滅された・10月13日前後から咲き始め、
翌4月8日、お釈迦様御誕生日の頃 に満開になる。
めずらしい櫻。 事実・・・冬になる頃に咲き出します。 所々で、
沢山咲いていましたよ!
日蓮大聖人が御入滅なられた時、開花したという、言い伝えのある櫻。 ですって。
この世は・・・人は死んで 又 新しい命が生まれる。 普遍の摂理ですよね。
でも・・・『立て札』をたて、『櫻』を咲かせ・・「覚えておいてね!」と。
ではもう一度
『黒田官兵衛の研究』 に戻りまして・・・
豊臣家臣時代:
信長…京都で明智光秀による 『本能寺の変』 が起こり、横死。
信長時代の終わり。 豊臣時代の始まりです。
『変』を知った官兵衛・・・
秀吉に、毛利輝元と和睦して光秀を討つように
献策し、
秀吉の『中国大返し』を成功させた。 と言われる。
戦略の大勝利!!
天正11年。 1583年。 37歳。
黒田官兵衛・・・大坂城の縄張りに当たる。
益々、さえて、実力を発揮していきます!
天正13年。1585年。 39歳。
官兵衛は、高山右近や蒲生氏郷らの勧めによって、
キリスト教の洗礼を受けた。
『ドン・シメオン』の洗礼名を持ち、キリシタン大名として、三木城の前野長康と共に、播磨における、
布教の入り口となっていた。
天正14年。1586年10月。 40歳。
官兵衛…毛利氏などを含む軍勢の軍監として、九州に上陸。
そして・・・
天正15年。1587年7月。 41歳。
秀吉…
『バテレン追放令』を発布。
官兵衛・・・ 右近らが『令』に反抗して改易される中、
率先して『令』に従った。 秀吉の側近である官兵衛の行ないは、宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えた。
翌年・1588年。3月。 42歳。
豊官兵衛… 臣秀長の陣営の先鋒を務めて、南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献する。
秀吉と黒田官兵衛の切っても切れない関係の始まりです。
豊前国主時代:
官兵衛…様々の戦いを、徐々に鎮圧し、和議・婚姻を結ぶ。
しかし
秀吉…国人衆を許さず、城井氏らを謀殺する。
天正17年。 1589年。 44歳。
官兵衛は、…秀吉が天下統一を実現していく中、秀吉から「次の天下を狙う男」として警戒されていることを知るや・・・
家督を嫡男・長政に譲って、隠居する。 更に…
『如水軒』(『如水』)と、『号』した。
家督を譲った後も、
如水は秀吉の側近として仕えた。
文禄元年。1592年。 46歳。
官兵衛は、…秀吉の朝鮮出兵で、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず、… 病を理由に帰国。
文禄2年。1593年。 47歳。
官兵衛は、…再び、朝鮮に渡るが、石田三成などとの間に確執が生じて、再帰国。
秀吉の怒りを買ったために、
『如水円清』と号して出家。
1598年9月18日。 秀吉、伏見城で、没。 官兵衛は52歳。
関ヶ原の戦い:
慶長5年9月15日。1600年10月21日。 官兵衛は54歳。
帰国していた如水・官兵衛・・・家康方に対し、前以って味方として密約を結び、
家康側につく。
秀吉一筋 家康へ。
関ヶ原の合戦の後・・・息子・長政が、勲功として、家康から、筑前国名島(福岡)37万石、への加増移封となった。
・・・如水・官兵衛にも、長政とは別に、上方での加増が提示されるが、
辞退。
ここでもう一度。一休み。 昼食です。 既に2時。
『西陣 茶房 宗禅』の・・・『京の招福ぶぶ漬け』 茶碗にご飯。 鯛。他をのせ、宇治抹茶入り梅昆布茶を注いで・・・「お茶漬け」
天然真鯛。 三つ葉。 国産鰻。 京漬物。ご用達あられ。 本わさび。 等等。 『ひつまぶし』を彷彿します。ミニ版。
デザート付き。 『自家製アイスと白玉』 & 『お抹茶』
築120年の町屋で、400年の伝統の味。 だそうです
1550円
機転の利いた・賢い武将・
黒田官兵衛の晩年:
関ヶ原の戦い後・・・中央の政治に関与することなく、
隠居生活を送った。
すべての恩賞を断り、息子・長政に与えられた筑前国(福岡)で、
草庵を構えた。
慶長9年3月20日。1604年4月19日。
59歳。
京都伏見藩邸
にて死去。 16歳で初陣 ~ 59歳。
43年間の武将の人生でした。
『黒田如水邸跡』
黒田官兵衛の『号』・『如水』。 今も、『町名』として遺っていました。小さな『如水町』。
黒田官兵衛の、京都の唯一の遺所。 と思います。
2軒の民家の間に、小さな『碑』だけがありました。
『号』・『如水』の由来:
ルイス・フロイスは、次のように記しています。
官兵衛は剃髪し、
予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績・・・
それらすべては、『今や水泡が消え去るように去って行った』 と言いながら、『ジョスイ』・・・すなわち水の如し、と自ら名乗った。 と。
人物像:
倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、戦い時のために、蓄財に励んだ。
一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても、何も言わずに笑いながら与えた。
当時は当たり前にあった、主君のために、家臣が追腹を切る事を禁止した。
人を害したり、神社仏閣を聖絶する事を、好まなかったといわれる。
『 如水居士画像 』
頭の切れの良さを感じさせない「穏やかな顔」。
1604年。58歳の顔。
ネットより。崇福寺蔵。
遺訓:
『人に媚びず、富貴を望まず。』
辞世の句:
59歳。
『おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて』
私もこんな風に・・・
『言い遺したいもの』 です。
『今更思い残すことばもない。最後に行く道を何の迷いも持たず、なるがままにまかせて進んでいこう。』
以上。
来年・2014年の大河ドラマ・『黒田官兵衛』の予習でした。
何事も前もって予習して・・・”どんなだろう!”と、期待を大きくして、本番の前も後も、いっぱいいっぱいに、楽しむのが好きな私
。 お粗末様でございました
。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 長々と失礼申し上げました
来年の『黒田官兵衛』 ご一緒に楽しみましょう!