
『幕末史の奇跡』と呼ばれた風雲児・坂本竜馬。 京都人にも愛され・・道端にも像が立ちます
竜馬も最期を迎える頃に歩いただろう河原町裏小路

今はしっとりと料亭が並びます
大好きなNHK大河ドラマ・・新しいドラマの度に・・
主人公のゆかりの土地を訪ね・・主人公と同じ地に立つのが好きな私です
今日の京都は酷暑

・・37度を超えました・・暑い中・・
竜馬が最期を迎える場所と道・・その場所に立ちその道を歩いてきました

幼なじみで大親友の武市半平太の京都の寓居跡地 今は奥深い料亭です

尊王攘夷の志し半ばにして切腹で最期を迎えた武市半平太(武市瑞山)の意思を・・
受け継ぎ貫き・・わが身も追われる身になった・・最期の頃の竜馬
武市半平太の京都の住まいを・・訪ねただろうか? 遠巻きに眺めていたのだろうか?
私も遠巻きに眺め・・・竜馬の心を想像しました
土佐勤王党
文久元年(1861年)、土佐における尊皇攘夷運動の中心的役割を果たすことを目的に、
当時江戸にいた武市瑞山によって結成された
土佐勤王党は下級藩士である武市によって結成されたため、
その構成員は下級武士である郷士や士族身分ではない地下浪人・農民などが中心で、
当時藩政を握っていた上級武士である上士からの参加者がほとんどなかった。
これがのちの悲劇を生む要因にもなった。
参加者の中には坂本龍馬もいたが・・
武市半平太の推し進める考えとは相容れず、かなり早い段階で辞めてしまった龍馬。
違う道を歩み始める二人・・それぞれの茨の道を歩む友への信頼と愛が・・
二人の心を慰めていたことでしょう
長州藩巨頭・桂小五郎。竜馬が仲立ちで薩摩の西郷隆盛と手を結ぶ、尊王攘夷派中心人物。
桂小五郎銅像。 長州京都屋敷跡に凛々しく立ちます。
京都ホテル・オークラ入口前でした。
(余談:
京都ホテル・オークラは、京都の美観保護制限高さのぎりぎりの問題建物。
京都一高い建物で、周りの寺やホテル等を抜きん出ていて、不調和です。
制限以内に収まればいいってもんでもないでしょう

って、思ってみたり

。)
竜馬は・・追われながらもこっそりと・・この地で・・小五郎と会ったのだろうか?
竜馬の歩いた地にたたずむ私は・・想像が膨らみます
龍馬と海援隊隊士をかくまった・・『酢屋』6代目・・今も続く材木商。

竜馬の部屋は2階左。今は「ギャラリー龍馬」として竜馬を偲ぶ。
竜馬は、当時、幕府から最も狙われていた志士で、
新撰組や見回り組みの追求が激しくなっていた。
藩邸らのより安全との気づかいで、最期を迎える『近江屋』に転居する10日前まで、
かくまわれ住んでいた『酢屋』
酢屋の前は高瀬川。
当時は、高瀬船が出入りし、川沿いには各藩の藩邸が立ち並んでいました。
美しいその地は、各藩戸との折衝や伏見等との連絡にも格好の土地。
竜馬は、そんな地に立つ『酢屋』を、隠れ家と選んだのです。
今も、美しく・・町屋が並びます。
酢屋に、海援隊京都本部を置き、隊士等数多くの志士が投宿していました。
暗殺される1867年(慶応3)11月15日の5か月前の6月24日。
竜馬は、手紙を送り続けた姉・乙女への3mもの最後の手紙を、『酢屋』で書いています。
酢屋に隠し残された『海援隊日誌』を・・・
91才の田中光顕伯爵(陸援隊副隊長)は、『涙痕帖』と名づけました。
酢屋を訪れ・・・
当時の竜馬や沢山の志士を思い、感慨無量でした

竜馬の部屋の畳をなぜて、置かれた机に触れてみました。
命を捧げた竜馬に、”感謝!”の気持が溢れます

。
『古都梅』 竜馬も立ち寄っただろうか? 竜馬も京料理は好きだったろうか? 昼食です。 先付け:胡麻豆腐
『古都点心』 二段重ね重箱を開ければ・・そこは『京都』だった。て感じです。一つ一つのお味が大切にされています。
器を開ければ・・大好きな『しんじょ』

。 デザートは『胡麻プリン』

。 全部美味しい

3234円
美味しいご飯を食べて・・いよいよクライマックスです。 というか・・竜馬の最期になります
「池田屋事件」の発端になった、古高俊太郎が潜伏していた古高俊太郎邸跡。 今は「志る幸」という料亭でした。
1864(元治元)年6月5日早朝・・
新撰組は、長州の志士・古高俊太郎をひっ捕まえる。
古高俊太郎は、密書の処分に手間取り、新撰組に捕縛されてしまいました。
地下倉庫からは武器が発見されたようです。
古高俊太郎は、前川の屯所で激しい拷問を受けました。
忠臣蔵・土方さんが命じて・・・
土蔵の2階から逆さ吊りにされ、上半身下半身同時に鞭打たれたそうです。
それでも耐えたため、足の甲に五寸釘を打たれ・・
それが突き抜けた足の裏の釘に百目ろうそくを立てて火を点けられたそう。
こんなこと命じた土方さん。・・って・・・怖いというか恐ろしい

。
激しい拷問に、古高俊太郎も負ける

。
そして・・『長州の恐るべき計画』・・を白状。
長州の「恐るべき計画」とは・・。
京を追われた長州人らが、6月下旬の風の強い日を選んで御所に放火して中川宮を幽閉し。
京都守護職・松平容保以下佐幕派の大名を殺害し。
天皇を長州にお連れする。
これを阻止しようとして起こったのが・・「池田屋事件」
幕府側治安維持組織である新撰組は、潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃。
当時の旅館『池田屋』・・・今は『海鮮茶屋 池田屋 はなの舞』

池田屋事件では・・多くの長州志士達が亡くなりました。
この事件があったために明治維新が1年遅れた。・・とも言われます。
とうとう・・竜馬も暗殺される時が・・来てしまいます。
身の安全を考えて隠れ家を、10日前に、『酢屋』から『近江屋』に転居したばかりで。
坂本竜馬と中岡慎太郎 遭難の地
「近江屋」。 今は跡地は『Kマート』です。

近江屋(井口新助邸):河原町通りに面した井口邸宅の本宅(Kマート) 竜馬の”隠れ屋”は本宅の奥。
隠れ屋から、裏手の寺

に通じる”隠れ道”も用意されていました。
不運にも・・・・竜馬は、『その日』・・風邪をひき・・
隠れ屋から離れ、暖かい本宅で暖を取っていた・・そこで襲われる。
午後6時頃・・訪ねてきた中岡慎太郎と話していて・・剣を持たぬ丸腰で・・襲われる。
隠れ道を利用していれば・・

歴史も大きく変わっていた
1867年(慶応3年)11月15日午後9時竜馬死亡。17日盟友・中岡慎太郎死亡。
18日近江屋で葬儀。
二人は一緒に、
『京都霊山護国神社』に葬られる
二人の墓・左が竜馬。右が慎太郎。 墓の横に、竜馬と慎太郎の銅像。
同じ、京都霊山護国神社に眠る・・長州藩巨頭・尊王攘夷立役者・桂小五郎
明治維新を成し遂げ・・近代日本の礎を築いた桂小五郎(木戸孝允1833~1877)
竜馬によって・・薩摩と和解し・・尊王攘夷を貫き・・大政奉還を招き・・明治維新。

坂本竜馬の志が・・・ここに実現しました。
朝9時~夕方6時まで・・猛暑の中を歩き・・竜馬の最期を見届けました。

”宇治金時かき氷”・・・”竜馬が歩けば時代が動く”
正に! 竜馬の足が時代を変えた