いよいよ隠岐の島ウルトラマラソンが、隠岐の舟の汽笛を合図に、スタートです。
昨夜、一睡も出来ませんでした、 焦れば焦るほど頭が冴えるので、考えました。
昨日の朝の5時から今日のゴールの夜の7時半まで、38時間半の労働をしていると思えばいいと、開き直りました。
冴える頭で、考えました。
私のウルトラの走りの努力を、人のために捧げたら、それが起爆剤
になるはずだと考えました。
最初の10Kmは夫のために・・10~20Kmは娘のために・・20から30Kmは息子のために・・30~40Kmは娘夫のために・・40~50Kmは息子嫁のために・・50~60Kmは孫娘のために・・60~70Kmは孫息子のために・・70~80Kmは沢山の私の友人のために・・80~90Kmはブログ友のために・・最後の10Kmは神様と世界平和のために・・・・私の走りを捧げます。・・・って考えたのです
山を越え山を越え、10Kmを走り終えた時には、これで夫の残りの人生の健康は守られる。
次々と山越えが続き、太ももが痛み始めます・・でも叉10Kmを終えたのですから、娘の幸せが守られる。
終わることのない山越えを、一つずつこなし、一人一人の幸せが確保されて行きました。
最後の10Kmでは、神様は完全な人で人からの援助はいらない方なのだから、私を反対に引っ張って下さい
と、願いました。 勿論、最後10Kmの世界平和は忘れずに走り続けました。
山越えに、私の前にも後ろにも、ランナーが一人もいない時もあります。
黙々と一人心細く、とっちんとっちんと山を登る私は、脚に頼りきらず、腕を大きく振って上半身をスイングさせて、その勢いで脚を進ませました。
早足で歩いてきたランナーに、追い抜かれる。
その真似して、私も戦術を変えました。 山の登りは、出来るだけ早足で歩いて、脚を休め、下りになったら思い切り走り抜ける。 この戦法が効を成したようでした。 登りの繰り返しが来たら、私は歩けるのだと思うと、山の登りの繰り返しへの恐怖心のようなものが薄くなり、す~と楽になりました。
山の登りでは、美しく豊かな自然の海と山の景色を楽しみ、いろいろに鳴く鳥の真似をして私も大声で鳴いてみせる余裕が生まれました。
美しい景色に出会う度に、「そのパワー頂き!」と、景色に向かって、ガッツポーズを繰り返しました。
突然、私の前を走っていた若い男性ランナーが、「脚がつって、動けない!」と倒れ込みます。 私は、私の相棒に戴いた、脚のつり予防のアスリートソルトを全部あげてしまいました。 「これを飲んでね。つっているのが直りますようにね。 これだけしかしてあげられないわ! ごめんなさいね。 先に行くはね。」 若いアスリートは、涙を流されました。 思わぬハップニングは付きものです。 悔しいものです。
心の余裕が大事と考え、応援のお年寄りと車椅子の方々を見かけると必ず走りより、手をしっかりと握りしめることにしました。皆さんからパワーを頂き、皆さんは必ず、「有難う!」と言って強く握り返えして下さいました。
5Kmごとにある給水所では立ち止まって飲みました。 ボランティアの方々の差し出してくれる水の美味しいこと。 「う~ん!美味しい!有難う!」 「頑張って下さい!」と、繰り返される言葉でした。
隠岐の島の平地では、牛が所々で放牧されています。 そんな牛が、「何をそんなに急いで、走ってる?」とばかりに、可愛い横目で私を見詰めています。
沿道の応援の地元の人が、「あなたのしていることは、偉大なことなのよ! 頑張ってね!」と、牛とは反対に、応援歌で励ましてくれます。
80Kmまで来た時には、海から山に向かってふく迎い風が強く、山を登る私は体をこごめて、風をよけるようでした。 すでに夕暮れになり、山を流れる空気は澄みきっています。
62才を迎えた私にとって、ウルトラマラソンの自分のタイムには、全くの関心が無く、『時間内に走り終えることだけに意義あり』で、走りきることだけを考えました。
(というより、好タイムを考えて走ったら、どこか体が痛くなってきて、初心者の私では完走出来ないだろうと考え、最初から好タイムへの挑戦は諦めていました)
自分自身を楽しむことだけを大切にしました。 ウルトラの記録への挑戦は若者に任せて、走れる自分を楽しむことにしました。(フルマラソンでは、私だって、好タイムをねらいますよ!)
「ちょっとは、無理をしなくては、出来ることだけやっていたのでは、私の人生は変わらない!」(
私の信念
)
未知の世界への新たな挑戦を一つ果たせた私は、私の人生に『挑戦』の宝のカードを、叉一枚積み上げることが出来ました。