四旬節の最終週の四日目。3月23日。
今日も、心静かに、心穏やかに過ごしました。静寂。
庭のボケ2種。 『白花と赤花』
両者は、同じようで、まるで違います。
白花は、枝に棘がいっぱい。外敵?から身を守るため?葉も全くない。よそ者を拒否です。
赤花は、棘など全くない。柔らかい葉が沢山ついています。 よそ者を包み込んで迎えます。
白花は、美しく。高貴な佇まい。 赤花は、可愛く。暖かな佇まい。
今日・受難の水曜日・・・・花々を眺めています。
庭の花々・・・心のうるおいです。
神の造り給うたこの世の全ての被造物は美しく、同じようでも一つ一つがまるで違います。それがいと良し。
そして。
今日は3月23日。 受難の水曜日。
イエスの愛は、大きさにおいても広さにおいても、無限です。
『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』ヨハネ15-12&13
イエス自ら、人類のために御自分の命を捨てて、イエスの無限の愛を示しました。
イエスは、全ての人の友であり、誰をも分け隔てをしません。
『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。』ヨハネ15-15
イエスは弟子たちを慈しんで、ご自分と12人の弟子たちと、親しい友情関係を結ばれました。
イエスは、自ら弟子たちを選び、任命したのです。
『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。』ヨハネ 15-16
しかし。
イエスにそれほどまでに愛されたイエスの弟子・ユダは、裏切りを企てます。
『ユダは、祭司長たちや長老たちや群衆と、暗闇の中でもイエスを見分けられるよう、
「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ。」と、前もって合図を決めていた。』
『ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。』
イエスはユダを凝視。ユダはちょっと目をはずして。
『イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。』
マタイ福音書 26章47-50
そして。
受難の水曜日。
『今日の福音 イエスの言葉』 イエスは裏切るユダに向けて最後の言葉をかけます。
『夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
一同が食事をしているとき、イエスは言われた。
『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
「人の子は、聖書に書かれているとおりに、去っていく。
だが、
人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれてこなかった方が、そのもののためによかった。」』
マタイ福音書 26章20-24節
人の子・イエスは、
聖書にかかれているとおり、神の御旨を成就するために・・・
『主の僕』として去っていくことは、以前からご存じだったはずです。
ユダの裏切りがなくとも、『時』が来たら、自ら『主の僕』として、去って行かれたでしょう。
さて。
『聖書に書かれているとおり』とは・・・
『主の僕・義なる僕・イエスキリスト像』 のことです。
『乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
わたしたちは思っていた。
神の手にかかり、打たれたから、彼はくるしんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わされた。
苦役に課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない子羊のように、
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。』 イザヤ書 53章1-8節
つまり。こういうことです。
イエスは、いつもそうであるように、今回も、
イザヤが預言した『神の御意志』を、誰の力を借りることなく、ご自分自ら実行なさるために、
『人の子・イエスは、聖書に書かれているとおりに、去っていく。』のです。
ところが。
ユダは、
そんな『主の僕・人の子・イエス』を裏切り、イエスを追跡者に売ったのです。
神は、自らの似姿に造った人類に、『最高の贈り物・自由』を与えました。
『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そしてすべてを支配させよう。』 創世記1-26
『自由』は、善にも悪にもなる、神が人類に与え賜えた『最高の贈り物』です。
それは時として
『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行く。』のです。
ユダは、
与えられた『自由』を、主・自分の師を裏切るという、『悪』に濫用しました。
そして
自分の『悪』に気づいても・・・再び間違いを起こしたのです。
ユダは、
イエスの死後も、再び、
『幸せ』と『不幸』の二つの前で、自由に、『不幸』を選んだのです。
『イエスに回心して許される道』 と 『イエスの許しに回心することなく絶望して自ら命を絶つ道』
言い換えれば、 『命の道』と『死の道』
二つの道の前で、『不幸の道』を選んだのです。
イエスは、人の幸せのみを望む方です。
イエスは、ご自分が選び、そして愛したユダの二度の間違いにどれだけ悲しみ、
ユダのためにどれだけの涙を流したことでしょう!
イエスは、ユダの悲しい結末を知っていて、前もって言われたのではなかったでしょうか?
『人の子を裏切るそのものは不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった。』と。
私達も、
ユダや、人類の全ての人々とともに、『自由』が与えられています。
そして
日々問われるのです。「あなたは、『幸せの道』と『不幸の道』のどちらを選びますか?」と。
時として・・・
『不幸の道』が『正しい道』に見え、『幸せの道』が『間違いの道』に見えたりするものです。
日々・・・イエスに尋ねながら、清く正しく、『幸せの道』を進みたいものですね。
以上。今日の私の『御言葉の感想』でした。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
右か左か? 食べるべきか終わりにすべき? 言うべきか黙すべき? 走る?走らない? 等等。
人生は選択の連続です。 花の選択の基準は『神任せ』で、間違いがない。
人の選択の基準選びは、『自由』です。人それぞれ。 『自由』程難しいものはないですね。
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今日・3月23日の走行距離:10㎞。
5時半。”母の声援を力に頑張って下さい!”と息子の応援ランだと思うと、母は走る!走れる!
息子は、昨年大会に続き、今年の『全日本トライアスロン宮古島大会』が迫り、猛特訓中。
御婦人が、一人で、早朝から、私が走る公道の草ぬきをしていらした。脱帽!
夫は、シングルの腕を保つために、ゴルフお出かけ前から精神統一です。
人生色々。人も色々。今日も、早朝から、それぞれの『自由な一日』が始まりました。
3月走行距離合計:140㎞