ソニーの子会社であるソニーコンピューターサイエンス研究所(ソニーCSL、東京都港区)は最近は、テレビ番組などによく登場する脳科学者の茂木健一郎さんが所属する研究所として有名です。そのソニーCSLを取締役・所長として経営し、自分でもシステムバイオロジー(システム生物学)という新しい学術分野を研究者として切り開いている北野宏明さんにお目にかかる機会を得ました。
ソニーCSLは、総勢が30数人と小粒な研究所です(実際の規模はポストドクターなどの学生研究員などが、さらに約30人ほどが出入りしている不思議な研究所です)。脳科学者の茂木健一郎さんや経済物理学者の高安秀樹さんなどといった独創的な“知”を産みだしてい“天才や異才”がひしめく研究所として有名な組織です。
北野宏明さんも当然、天才・異才の一人です。
人工知能(AI)の研究を深めている内に、人工知能を生かす具体的な対象として、ロボットに大いに関心を示し、その一環として以前にソニーが販売したイヌ型ロボット「AIBO」の開発にも携わった方として有名です。人工知能という難解な学術分野の延長として産業応用を考えるとロボットという応用製品が頭に浮かぶ辺りが、北野さんの面目躍如の部分です。単なる学者ではなく、産業応用を念頭に置いている実務者だからです。
北野さんの社会人としての経歴もユニークです。一組織に固執せず、その時に自分を一番活性化させる組織にいます。まず、国際基督教大学で物理を学びます。この時は「英語によるディベートに夢中になった」とのことです。大学卒業後に、1984年4月にNEC(日本電気)に入社し、ソフトウエア生産技術研究所に配属された。NECに就職した理由は「一度は企業を体験してみたかったから」という。大学院に進学し修了してしまうと、日本では企業に就職するのは難しいとの判断から、大学卒業後にまず企業に入社します。
就職後の数年後に社内留学制度を使ってに、米カーネギーメロン大学機械翻訳研究所に入り、人工知能分野を研究します。24時間を研究開発に費やせる夢の日々を送ることができたそうです。論文を多数書き、学会などで研究成果を発表するなど、研究者として満足感あふれる日々を過ごしたそうです。
北野さんはこの研究者として過ごした日々から「国際的に認められる独創的な研究開発を企画し実施するには、発想のスケールと志の高さが必要条件」と会得し、実践します。「研究開発テーマを考え、成果を検証する際には『世のため、人のための研究か、物まねや流行り物ではない研究か、常識や前提を突き崩す研究か』などの複数の項目で検証し続けている」といい、自分でなければできない研究かを問い続けるように、心掛けて続けていると説明します。
カーネギーメロン大学に留学中に、「同時並行言語解析生成アルゴリズム」を研究開発し、この研究成果を国際会議で発表したところ、京都大学から「この研究成果で学位をとらないか」と誘われます。1991年に京大で博士号を取得します。さらに1993年に、国際人工知能会議では日本人として初めてComputers & Thought Award を受賞し、研究者としての実力を国際的に認められます。
北野さんは米国や日本の大学や企業から「うちに来て研究しないか」という誘いを同時にいくつか受け、結果的にソニーCSLを選びますん。「研究開発成果の実用化に興味があり、大学よりも産業界に近い企業の方を選んだ」と説明します。当時のソニーCSL所長の所真理雄さん(現社長)と、研究内容を議論し始めた過程から「ソニーCSLは自由に自分の責任で研究開発をできるところだと感じた」と説明します。
北野さんは分子生物学を人工知能というシステム側から解明するシステムバイオロジーを提唱します。分子生物学という学術領域からではなく、コンピューターサイエンス側の人工知能側からのアプローチです。著名な分子生物学者からはあまりにも荒唐無稽な発想に対して、「研究不可能」とまでいわれます。
そんな雑音には聞く耳持たずに北野さんは、文部科学省傘下の科学技術振興機構(JST)が進める戦略的創造研究推進事業の一つであるERATOの研究総括責任者(研究リーダー)の一人として活躍します。
1998年度から2003年度まで(平成10年度から15年度まで)、「北野共生システム」プロジェクトを推進しました。国際人としての北野さんの発想によって率いられたプロジェクトです。
ソニーCSLは、総勢が30数人と小粒な研究所です(実際の規模はポストドクターなどの学生研究員などが、さらに約30人ほどが出入りしている不思議な研究所です)。脳科学者の茂木健一郎さんや経済物理学者の高安秀樹さんなどといった独創的な“知”を産みだしてい“天才や異才”がひしめく研究所として有名な組織です。
北野宏明さんも当然、天才・異才の一人です。
人工知能(AI)の研究を深めている内に、人工知能を生かす具体的な対象として、ロボットに大いに関心を示し、その一環として以前にソニーが販売したイヌ型ロボット「AIBO」の開発にも携わった方として有名です。人工知能という難解な学術分野の延長として産業応用を考えるとロボットという応用製品が頭に浮かぶ辺りが、北野さんの面目躍如の部分です。単なる学者ではなく、産業応用を念頭に置いている実務者だからです。
北野さんの社会人としての経歴もユニークです。一組織に固執せず、その時に自分を一番活性化させる組織にいます。まず、国際基督教大学で物理を学びます。この時は「英語によるディベートに夢中になった」とのことです。大学卒業後に、1984年4月にNEC(日本電気)に入社し、ソフトウエア生産技術研究所に配属された。NECに就職した理由は「一度は企業を体験してみたかったから」という。大学院に進学し修了してしまうと、日本では企業に就職するのは難しいとの判断から、大学卒業後にまず企業に入社します。
就職後の数年後に社内留学制度を使ってに、米カーネギーメロン大学機械翻訳研究所に入り、人工知能分野を研究します。24時間を研究開発に費やせる夢の日々を送ることができたそうです。論文を多数書き、学会などで研究成果を発表するなど、研究者として満足感あふれる日々を過ごしたそうです。
北野さんはこの研究者として過ごした日々から「国際的に認められる独創的な研究開発を企画し実施するには、発想のスケールと志の高さが必要条件」と会得し、実践します。「研究開発テーマを考え、成果を検証する際には『世のため、人のための研究か、物まねや流行り物ではない研究か、常識や前提を突き崩す研究か』などの複数の項目で検証し続けている」といい、自分でなければできない研究かを問い続けるように、心掛けて続けていると説明します。
カーネギーメロン大学に留学中に、「同時並行言語解析生成アルゴリズム」を研究開発し、この研究成果を国際会議で発表したところ、京都大学から「この研究成果で学位をとらないか」と誘われます。1991年に京大で博士号を取得します。さらに1993年に、国際人工知能会議では日本人として初めてComputers & Thought Award を受賞し、研究者としての実力を国際的に認められます。
北野さんは米国や日本の大学や企業から「うちに来て研究しないか」という誘いを同時にいくつか受け、結果的にソニーCSLを選びますん。「研究開発成果の実用化に興味があり、大学よりも産業界に近い企業の方を選んだ」と説明します。当時のソニーCSL所長の所真理雄さん(現社長)と、研究内容を議論し始めた過程から「ソニーCSLは自由に自分の責任で研究開発をできるところだと感じた」と説明します。
北野さんは分子生物学を人工知能というシステム側から解明するシステムバイオロジーを提唱します。分子生物学という学術領域からではなく、コンピューターサイエンス側の人工知能側からのアプローチです。著名な分子生物学者からはあまりにも荒唐無稽な発想に対して、「研究不可能」とまでいわれます。
そんな雑音には聞く耳持たずに北野さんは、文部科学省傘下の科学技術振興機構(JST)が進める戦略的創造研究推進事業の一つであるERATOの研究総括責任者(研究リーダー)の一人として活躍します。
1998年度から2003年度まで(平成10年度から15年度まで)、「北野共生システム」プロジェクトを推進しました。国際人としての北野さんの発想によって率いられたプロジェクトです。