新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月15日 その2 迷惑メールと迷惑電話

2024-01-15 15:13:17 | コラム
凄いものだと寧ろ感心している:

迷惑メール:
先ずは迷惑メールだが、昨年の11月初旬には毎日400本台だったものが、3日から300台に下がり、12月半ばには100を切るところまで減ってそのままに維持されていたのは良い傾向だと思っていた。ところが、先週辺りから急にOCNのブロッキングサービスの網の目を潜り抜けたのか、アマゾンのPrimeを騙るメールが毎日のように来るのだ。何故、そうなったのかを下記のように推理してみる事にした。

私のPC歴は2003年から始まっているが、それも言わば義理も絡んで止むを得ず導入したもので、決して自発的に意欲を燃やした訳ではなかった。その時に指南役だった愚息が何年か経った後で「便利だから」と、アマゾンも使えるようにしてくれてあった。だが、当方は立派なディジタル・ディバイド世代であるから、今日に至るまで10回とは利用して来なかったと思う。

だが、2~3年前だったかに、家内のミシンが作業中に壊れたので急遽(居合わせた愚息の助けを借りて)1台アマゾンで購入して急場を凌いだ。しかし、何故か知らないがその結果でPrimeとやらになり、毎月500だか600円を徴収されるようになってしまった。それは無駄な投資であると、今年になって愚息に解除して貰った後で、偶々私の体調が狂ってきたので、それを整える医療機器を購入した。確かに便利だった。

その直後からアマゾンのスパムメールの襲来が始まった。何年振りかの購入が彼ら小悪党どもの網に掛かったのだろうと思っている。それにしても、彼らの能力が高いのか、ネットというものにはそういう危険性があると理解して認識せねばならないのかと、今更ながらというか、遅まきながら学習させられている。それにしても、OCNはそれ以外のアマゾンを騙るメールをブロックしながら、これらのPrimeを僭称するメールを逃すのは何故だろう。

迷惑電話:
マスコミ報道等で「アポ電」なる窃盗か強盗団の手法があるとは承知していたつもりだ。我が家は30年以上も前から、この新宿区の一角にかかってくる怖い電話を未然に防ぐ為に、固定電話を「ナンバーディスプレイ方式」にしている。だから、知らない番号からの電話には出ないで済んでいる。だが、昨年の後半辺りからその種のでないで放置しておくと切れてしまう電話が増えてきた。

そこで二男の指導の下に「留守電になると何も言わずに切ってしまう電話の番号を記録して、検索をかけて見る事」にした。すると、見事な程に「不用品買い取り」、「不動産売買」、「住宅リフォーム」、「貴金属・貴重品の買い取り」、「世論調査?」等々の告知されていた典型的な「アポ電」と思える業種からの電話ばかりだった。その数は既に15本に達している。これらの番号の特徴は、一度留守電になってしまうと、二度とはかけてこない事のようだ。

それにしても、中には本当の商売の売り込みもあるかもしれないが、こういう手法で釣れる(フイッシング?)という確率を悪党どもは見込んでいるのだろうと思うと、当家のような高齢者世帯が標的にされるのも無理からぬと思ってしまう。本当に好ましくない時代の流れがと痛感させられている。

そういう点では、昨年の10月だったかにスマホからある物を購入した時には、契約終了後1時間程で、そのスマホにインチキな電話がかかってきたのには「時代の恐ろしさと凄さ」を充分に学ばせて貰えて恐れ入った。恐ろしくて困った時代になったのか、あるいは便利なのか私には解らない。だが、「全てのコインには表と裏の二面がある」という英語の格言を味あわされている。


我が国における英語とその教育を考える

2024-01-15 07:13:17 | コラム
英語は日常生活には必要がない存在では:

今回趣旨は私独自の「我が国独特の科学としての英語の勉強を必須とする教育を考え直すべきである」という主張を、あらためて述べていこうというものである。

私は今日これまでに何度か「我が国での日常の生活では、英語を良く理解し尚且つ会話が出来る事が必要な条件にはなっていない」と指摘してきた。だが、戦後では何故か「英語に精通し、日常会話が出来る事が非常に重要である」かの如くになっていた。学校の教育でも非常に重要な必須科目となり、会話の能力も求められるようになっていた。

確かに、戦後は進駐軍という名のアメリカ軍に支配されたので、彼らとの意思疎通を図る為にはある程度の英語力が必要だったようで、学校以外にも街には会話学校が数多く出来ていたような記憶がある。私は戦後間もなく進駐軍が街にやってきた際に言うべき事として、隣組で回覧されてきた英文を今でもハッキリと覚えている。それは、

“I cannot speak English. Please wait a while. I will bring a man who can speak English.”

だった。平明な単語だけが使われていて、言うべき事が良く解るように表現されていると思う。現在の学校教育で英語を教えられて、これだけの事を即座に英語で言える人が何人いるだろうかと、つい考えてしまう。だが、理屈を言うと「英語を話す事が出来ない」と断っていながら、見事に意志を表現してしまっているのは、論点が矛盾していないか。

ここでは末尾に“well”を付け加えるか、“I am not so good at speaking English”か、“I cannot understand English”とすると良いと思う。

閑話休題。戦後の我が国では復旧・復興と経済的発展が目覚ましく、瞬く間に世界の先進国だったアメリカやヨーロッパの経済大国に追いついてけるようになった。その間に学問というか学力も著しく向上して、戦後間もなくの頃のように英語を介在させないと科学というか理工系の学問の技術も進展しない国ではなくなっていたのだ。この「英語を介在させずとも」と言える国が世界にどれ程あるかが重要なのだ。

確かに、私の経験でも1970年代に入る前には技術者たちの中では英語の専門語(テクニカルターム)の理解が進んでいて、通訳を使わなくても話し合いが出来る人が多かった。私も通訳をしながら、専門語を教えて頂いた事が何度もあって恥じ入った経験があった。専門語どころか理工系というか技術的な専門の書物でも、日本語で充分に間に合うと聞かされていた。

しかも「ここは日本国」である以上、日常生活で英語が必要とされる場などある訳がないのだ。それでも、学校教育でも、企業活動のような実務の世界でも、何故か英語の成績が良い事が必要条件のような雰囲気が醸成されてしまっていた。確かに、何時の頃までか、我が国の経済が大いに依存してきた輸出入の実務を担当すれば、一定上の英語の理解は必須である。だが、国内市場を担当する時には必要ではない時代になっているのだ。

それでも、科学としての英語教育を尊重しすぎた結果で、我が国独特の英語教育が行われ、その集大成としての小難しい試験が至るところで実施される時代になっていた。それで、TOEICで高得点が取れないと採用せず、昇進に影響するという会社も出てきたようだし、TOEFLだの英検何級だのと試験が重要となり、多くの人たちがその対策を懸命に学ぶようになった。だが、その科学としての英語が何処で何の役に立つのだろうか。

私はこれまでに何度もそういう多くの試験の問題に「この単語の何処にアクセントが置かれるかを示せ」という問題が出ている事を笑っていた。そんな枝葉末節の単語の知識を習得しておく事が、外国との重要な交渉をする時に役に立つのか」と言って。即ち、学校教育で「生徒や学生に優劣の差をつける為に、5段階の評価が出来るように英語を教えている事」の集大成がそういう試験の成績なのだ。

数社の大手企業の人事担当者が「当社ではTOEICの点数が高い人材を求めていない。我が社の海外との交渉の場で先方を屈服できるような優れた論旨を組み立てられる能力を持つ者をこそ求めている」という点で意見が一致していた。私は長年のアメリカ企業の対日輸出(日本では輸入)の交渉の席で、アメリカ人たちが震え上がるような見事な論旨を構築された俗に言う「タフネゴシエーター」に出会ってきた。その方々が流暢に英語を話された訳ではなかったが。

結論をここで言ってしまえば「自分で英語を懸命に勉強しようという目標を立てるか、教える側がどのような目的か用途に相応しい英語を教えようとするか」にかかってくるのだ。ただ単に「世間で英語が必要な時代になったと言われているから」というだけで、何時何処でどのように役に立つのか明確ではないのか、あるいは当人が認識できて否にも拘わらず、5段階で判定する為の英語を教える事の意義が何処にあるかと言いたい。

私の場合は39歳にして図らずもアメリカの会社に転身し、1年に6回も7回もアメリカと日本を往復しないと仕事にならず、常にアメリカの会社を背負って我が国との交渉をしていなければならない立場にあれば、高い英語力は必須である。だが、そういう必要に迫られる人がどれ程いるのかと言いたい。今や戦後間もない頃のように専門の商社に依存せずとも、自力で輸出入の実務をこなしておられる会社も担当者も幾らでもいる時代だ。

英語を深く追求するのは、確固たる目的と目標を立てた人が勉強すれば良いのであって、万人がTOEIC等々に試験で良い成績を取らせる事は必須ではないと思うが、如何だろうか。