新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

非常に残念だった事:

2024-01-09 07:35:35 | コラム
昨8日の「英語の文章の書き方とその勉強の仕方」について:

是非ともお願いしておきたい事がある。それは、「今回ここに論じる事柄を、最後まで読み通して頂きたい」という事。

非常に残念だった事は、昨日論じた「英語の文章の書き方とその勉強の仕方」のブログでのアクセスが予想したとおりに低調だった事だ。見出しだけご覧になった方の中には「また何時もと同じような訳が分からない事を言うのだろう」と頭から決めつけられて、読まなかったのではと思う。

私が思うには、読もうとされない最大の理由は「このような異端の方法で勉強して、学校での成績が挙がるか。いや、それは疑わしい」と「TOEICのようなテストで高得点が取れるのか」という疑問が生じるのだと読んでいる。要するに「学校教育の試験のための英語教育には通用しないだろう」と懸念されるのだろう。

解りやすいようにその反論のような考え方を否定してみよう。それは「学校教育では単語の記憶、文法、英文解釈、英作文、会話等のように、本来は一つの纏まった塊である英語をバラバラに分解して独立した分野のように教え、夫々の分野の間に何らの有機的な結びつきがないかのように教えている事の為に、何時まで経っても英語が身につかず、自分が表現したい事を英語で言えるようにならない原因だ」と、認識できていない事を表している。

そこに、学校の試験でも、かのTOEICやTOEFLでも、その試験の延長線上にある問題しか出てこないのだから「音読・暗記・暗唱方式」や「中学校1年の教科書に出てくるような易しくて平明で簡単な単語を使って、単調になっても構わないから短い文章で思う事を表現できるよう」になっても、「それでは、それらの試験で好成績が上がるとは考えられないので、その勉強法にしようとは考えない」と決めつけておられるのだと思っている。

「その考え方が間違っている」のではないのだろうか。これまでに何度も「音読・暗記・暗唱方式で最初から勉強してきた何人かの人たちがnative speakerの中に入っても遜色ない英語力の持ち主だった事」を採り上げてきた。また某商社の若手をこの方式で個人指導した結果で、彼が所属する課の中で随一の英語の実力と認められるようになったと示してきた。古くは昭和26年代の家庭教師での成功例を回顧して見せた。

お疑いの向きは「まさか?」と思われても、是非一度古い教科書を探し出して、Lesson1~3くらいを完全に暗記出来るまで繰り返して音読なさってみては如何か。恐らく、一寸長めの文章に会えば何処で切れるか、pauseを置くべきかが見えてくると思う。知らなかった単語があれば、直ちに辞書を引く事だ。また、繰り返し音読していれば、自然にその単語の何処にアクセントを置くかも見えるようになって来るのだ。

その段階の教科書の英文を迷わずスラスラと音読できれば、意味も自然に解ってくるようになるのだ。それにもまして重要な事は「言葉を単語として覚えるのではなく、文章の流れの中でどういう意味に使われているかも解ってくるもの」だという事。この点を指して、私は「単語という部品をバラバラに覚えても、自動車を組み立てられないだろう。その部品が何処にどう繋がっているかを知る事が肝心だ」と指摘してきたのだ。

私としては、もしもここまででも読んで頂ければ、この一文を纏めた意味が出てくると思っている。仮令読んで頂けても、半信半疑の方はおられると思う。疑われた方は何卒「何故、我が国の学校教育の英語を6~8年も勉強しても、効果が上がらなかったのか」と「こういうことを言っている人が、アメリカや英連合王国の人たちの中に入っても苦労しなかったのは何故だろう」と考えて頂きたいのだ。

こういう方式であらためてやってみようと、検討して貰いたいのだ。中学・高校・大学の教養課程と勉強してきても「貴方は何処の国から来たのですか」も言えないような状態にしか育ててくれなかった、我が国の英語教育の効果の程を疑った事はないのですかという問題ではないのだろうか。何度も採り上げてきた事で「私はこの様式を中心にして中学~大学までの間で、英語の試験で90点を切った事は2回しかなかった」のだ。

要点は「英語という一塊を後天的にバラバラにして教えられた結果が、現在の自分の不十分な理解と英語力だ」とお分かり願いたいのだ。即ち、「投網を大きく広げて打って魚を捕るように、『英語』という原語を広い視野から見て全体像を把握し理解することから入って行こう。釣り竿で無数の単語を一箇、また一箇と釣り上げようと試みない事」というのである。