新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月17日 その2 久しぶりにスポーツの話題を

2024-10-17 09:12:54 | コラム
堅苦しくないサッカーと野球の話を:

久保建英と三笘薫は選抜ティームでは:
オーストラリアとの双方が「オウンゴール」で1点しか取れなかったという珍しい試合を「もしかして負けることもありはしないか」と密かに心配して見ていた。[
遠藤航一人が抜けると余り纏まりがない寄せ集めのティームになってしまったのか」と思わせられる点があったのではという気さえする引き分けだった。しかも、オーストラリアはシュートが1本で、我が方は10本という始末。

褒めたいことと貶したいことがあるが、現代のサッカーは理解できない点が多々あると言っている以上、批判がましいことは言わない方が良いと思う。でも、気が付いたことは言おう。それは「スペインやUKのリーグで通用している見出しの二人が、それほど威力を発揮していないのは何故か」という辺り。久保は例によって堂安共々後半の途中で引っ込められてしまった。

あの試合を観ていても感じるのだが、あの二人はテレビが持て囃し、外国で評価されている(のだろう)割合には「効いている」とか「流石に高い得点能力がある」などと気付かせられるほどの上手さも凄さも感じられなかった。それは何故かと思えば、嘗て「香川真司や岡崎慎司が代表に入ると活躍しないのは、周囲が彼等の特長を活かす術を知らないからでは」と批判したのと同じ現象ではないかという事。

お互いの考え方や意図はある程度通じるのだが、彼等二人を使いこなせるだけの(古い言い方かも知れないが)ゲームメーカーも組み立て役になれるまでの力量が備わっていない、海外の精鋭に使って貰っている者だけを集めたのであれば、久保と三苫を活かし切れないのも仕方があるまいと思って、得点力(能力?)不足にイライラさせられた試合だった。だが、彼等20数名の技術水準は非常に高いのである。

筒香さん、お見それしました:
野球の話である。ベイスターズがジャイアンツに勝ってくれれば(4回もという意味)素晴らしいのだがと思って、昨夜は手に汗握らずに観戦していた。三浦監督がKayを先発投手に起用したのが、吉と出るか凶と出るかが焦点だったと思った。ところが、勝負の分かれ目はそれとは別に7回にやってきた。

確か、走者一三塁のチャンスに、危機となったジャイアンツはお定まりのファイターズから出されたと思っているイヤな左投げで癖がある投げ方の高梨雄平投手を出してきた。それに対して、三浦監督はMLB出戻りの決して器用とか上手いとは思えない左打者・筒香嘉智を代打に出した。「何をやっているのか」と嘆けば、居合わせた二男は「結果を見てからのことでは」と一言で帰ってしまった。

結果としては筒香が言わば「ノーコン」の高梨がアウトサイド低目ギリギリに投げ込んできた変化球風の投球を鮮やかにレフト前に流し打って貴重な追加点をもぎ取ったのには驚かされた。筒香があれほど鮮やかに低目を流し打てる技術があったとは知らなかった。だから、「筒香さん、お見それしました」と詫びるのである。ジャイアンツの敗因は菅野が批判していた「2週間も空いたこと」にある気もする。

新庄監督は「未だ未だだと、めげていない」とか:
正直に言って「幾ら新庄監督が3年かけて手兵を育てて、清宮が一本立ちしそうになったし、ホークスで燻っていた水谷を発掘し、郡司を捕手以外で活用し、万波を一本目に仕上げ、水野と田宮を発掘してあっても、ソフトバンクとは地力が違うのではと危惧していた。昨夜は気の毒だったが、順当に強い方が勝った。

ここから先は「正統派」で奇策をも弄する新庄監督が若手を萎縮させずに、ホークスの強力な打者と投手に立ち向かっていくかに興味がある。昨夜のホークスの先発投手は元はと言えばファイターズだったMLB出戻りの有原で、主力打者の近藤はマスコミ情報では新庄の方針を嫌って出ていった選手たちだ。

MLB:
大谷翔平はDarvishを始めとする投手たちに弱点と見える「アウトサイド低目にストライクとストライクからボールになる変化球のコントロール」に悩まされて当たっていない。一寸だけ中継を見てもどの投手も間違わない限り、大谷が振るバットが届いてホームランになるところ(英語では「コース」なんて言わない)には投げていかない。

即ち、流石の大谷さんでも「打てる投球(球ではない)」が来ないのでは仕方がない。相手は「大谷を崩そう」と狙っているのだから。

「手続きはご自身でスマートフォンで」

2024-10-17 07:00:38 | コラム
何時から「国民皆スマートフォン条例」が制定されたのかな:

昨日のこと、某所の事務方(フロントか?)に「登録してあったクレデイットカードの番号が変わったので」と『口頭』で申告したら「それでは登録時に使ったメールアドレスとパスワードを記憶していますか。それが確認できたらご自身でスマートフォンでお願いします」とにべもなかった。知らないと言うと「そのメモがあればそれを持参で出直して下さい。手続きはこちらでお手伝いしますが、カード番号はご自身で」と宣告された。

確かに、昨年の8月にドコモに再三勧誘されて切り替えてあった「らくらくスマートフォン」が2台目になっても直ぐに電池が消耗するので、ここ13階のアパートから飛び降りる決意でiPhoneとやらに切り替えたが、言うなれば固定電話を持って歩いている程度の使い方しか出来ない、イヤそれ以上のことまでする気がしない。

それでなくても何かと言えば「スマホ」で指示するディジタル化にウンザリしていたので「またかよ」と不愉快になっていた。岸田さんが「国民皆スマートフォン」と言い出した記憶も無いが、すべてが「皆が持って使いこなしている」という前提に立っている。「使い方を習得しない貴方の責任であって、ディジタル化を責めるのは見当違いだ」と言われれば反論できない。

だが、我が方だって2003年に70歳になった後で仕事上の止むを得ざる事情でPCを導入して辛うじて時代に追いついていたかと思えば、今度は「国民皆スマートフォン」攻勢に迫害されている。これが、90歳を過ぎるまで生き長らえた事の「デメリット」だ。こんな英単語の誤用がまかり通っている現代こそが非難されるべきだ。

目下のところはIDとPWを記載したメモを持参して、係の女性に辞を低うして「時代に遅れていて申し訳ない」とお手伝いを願い出るしかないと、悲壮な決意を固めたところだ。希望としては「何時かはAIがこちらの意図(「願い」か)を読んで仕事をしてくれる日が来れば良いのだが」というところ。