私は彼等を礼賛していないし仰ぎ見る存在だと思っていない:
上智大学での経験:
これまでに一度も回顧したことはなかったが、私は当時としては不慣れなマルかバツかの方式の当時の大学進学適性検査に大失敗をして、学年で下から3番目の31点しか取れず、全ての国立大学を受験する資格を失い、一旦は浪人を考えたがサッカー部の2年上だった嘗てのサッカー部のマネージャーだった上級生に「浪人はするな」と諭されて、カトリックのイエズス会が経営する上智大学とは如何なる厳格な大学かも知らずに受験した次第だった。念の為に確認しておくとこの大学は所謂「ミッションスクール」ではない、男子校だったのだ。
その上智大学に進学して学んだことが「一神教の精神で、全てが神のみ旨であり、それに従うことしか認められていない二進法的な思考体系」であり、その規律の厳しさ大方が外国人(主にヨーロッパ人)神父様である教授陣の講義に対する姿勢の想像もしていなかった厳格さだった。そうとは知らずに入ってきた主に地方から一部の学生たちは「気楽なものだ。全てが神様任せで屈託がないだけの世界」と揶揄した。だが、彼等にも私にも「大学が定めた規則を守らねば進級も出来ない」という厳格さを理解するのには長時間を要さなかった。因みに、多くの神父様たちの講義は英語だった。
厳しさの例を挙げておこう。哲学を担当されたドイツ人の神父様は教科書を忘れた学生が隣の席に寄って見ていたのを見咎めて「教科書を忘れるとは私の受業を聞く資格がないから、直ちに退去せよ」と命じられた。学生は「厳しすぎる処置だ」と抗議すると「君は入学時に大学が定めた規則を遵守すると署名捺印していたはずだ。それに違反したのだから退出は当然。嫌なら大学を辞めなさい」と宣告。その学生はその場で「退学します」と去って行った。要するに、カトリックの世界に入れば「定められた規則は守るのは当然。それが神が定めだ」と極めて単純明快だった。
私は何らかの事情で追試となったことがあって、その神父様の研究室に呼ばれた。すると「これが追試の問題だ。君はカンニングをしないと神に誓うが」と尋ねられ「イェス」と答えた。神父様はそのまま次の講義に出て行かれ、90分後に戻られた。私は些か呆気にとられたが、これが一神教に世界の思考体系かと思い知った次第だった。この「何事も神のみ旨」と「規則に従い、神に背かない」事が最重要と知り得たことは、後にアメリカ人(プロテスタントですが)の会社に転じても、慌てずに対応できる基礎となっていた。これは英語が解るか否かの問題ではないと思っている。言ってみれば「宗教心の違い」かと思う。
アメリカ人には100人に1人しかまともな者がいない:
これは、既に採り上げた「上澄みの層に属する者は極めて少ない」という説の延長線上にある議論だと思う。1980年代だったと記憶するが、本社からの帰りの機内で隣の席に座った某大手コンサルテイング会社のアメリカ支社長で、東大の工学部出身と名乗った人物と語り合ったことがあった。その際に私は「アメリカという国にはウンザリだ。白人でも中流以下(“lower-middle”とでも言うのか)から下の階層になると、まともに使える者が1,000人に1人しかいないではないか」と率直な意見を述べた。
先方の意見は「使えない者が非常に多いとの説には賛成する。だが、如何に何でもそれが全体の0.1%は言いすぎだ。私は1%だと見ている」だった。そして暫くこの件を議論した結果で「1%」で決着した。これは、本当に彼等の中に入って彼等との仕事を経験してこないことには、認識できない問題であるとも意見が一致した。この点は、新卒から始まって年功と共に段階的に地位が上がっていく我が国の会社組織では考えられない身分の差なのだ。
彼等は滅多にマネージャーの肩書きすら与えられることがなく管理職とは成れずに、言わば補助的な仕事しか与えられていない事務職の者たちなのだ。彼等は与えられた任務だけ恙無くこなしていれば良いのだし、年俸は増加することはあっても地位が上がっていくことはないので直向きな向上心も乏しく、我が国では考えられないほどノンビリとした存在。そこには、州立大の4年制しか出ていない者が多く、極端に言えば立身出世には諦めの心境にあるようにすら見えるのだ。
前出の1%論の後で、私は不覚にも「アメリカに来てホテルにチェックインしようと思えば、あれほど簡単な手続きの処理に20~30分もかかる。空港でも同様でカウンター内の地上勤務の事務員たちの仕事の能率が低く常に1時間くらい待たせられる。買い物をすれば暗算で釣り銭の計算すら出来ない店員ばかり」と不満を述べてしまった。すると、彼は「それは貴方自己矛盾の論法だ。貴殿はつい先ほどまともな者は100人に1人で合意したばかりではないか。街中で99%に出会うのは当然だ」と揶揄されてしまった。
極論的に言えば「家が裕福でなければ、比較的学費が少額で済む州立大学に進む以外に余り選択肢がない。だが、州立大学の4年制の出身では先ず中小企業か街中の商店等に職を求めて、そこで実力を養うか特別なスキルを身につけて大手企業に採用されるように準備しておくことが重要になるのだ。だが、裕福な家に生まれれば、Ivy Leagueでも何処でも進学できる機会があるし、卒業後に4年間の実務経験を経てビジネススクールに進み、大手企業に就職して出世の道を開くMBAも取得するのがアメリカ」なのだ。
ウエアーハウザーにも州立大出身の事務職はいたが、彼等は滅多に肩書きと地位が上がって行くチャンスには恵まれないのだ。だからこそ、彼等は年俸に見合う分だけ働いてそれなりの生活を維持するしか考えていないと見ていた。やる気等は出しようがないのだ。私が「生涯で最高の上司だった」と賞賛する副社長は、実は州立大学の4年制の出身だったが、その類い希な才能を会社側に見込まれて、別組織である地方の工場の会計係から抜擢され引き上げられてきた珍しい例だった。即ち、MBAでもない副社長だった。こういうことも希にはあるのもアメリカだ。
格差社会:
アメリカの会社には年功序列などなく、何処から来たのかも知れない一流私立大学のMBAを持つ若手が、ある日突然彼等事務職を顎で使うような地位に就き、あれよあれよという間に出世というか高額な年俸を取る地位に上がっていくのだ。そして社長に認められるだけの実績を挙げた者だけが入れる「会社のボーナス・プログラム」にも加えられるのだ。更に成績を評価されれば、年収がは一層増えていき、それに見合うだけの実績を挙げるべく、夜を日に継いで働く以外にその組織内で生き残れる術はないのだ。
私は一度事務職の高齢者に「あんな若造にこき使われて気分が悪くないのか」と尋ねて見たことがあった。答は簡単で「彼奴は好き好んであの地位に就いたのだ。その代わりに朝は6時でも7時でも出勤し、夜は8時でも9時でも仕事が終わるまでは居残り、土・日もなく全アメリカや世界中を飛び回っていないと高額な年俸と地位を守れない。俺はこの年俸に見合うだけの仕事をすることに不満はない」と顔色一つ変えずに答えた。そうは言っても不平・不満と格差に対しては鬱積したものがあるとは推察している。だからこそ、白人があの人種差別反対のデモに参加しているのだとか。
20年以上も彼らの世界にいて良く解ったことは、上記の議論に出てきた1%、即ち、100人に1人の突出して優れた才能と能力の持ち主が、出自と学歴を引っ提げて部員たちのに位して、残る99%の凡庸な者たちを引っ張って行くのがアメリカの組織なのだ。99%はそのたった1人の指導者の方針に口を挟むのは先ず不可能だろう。と言うことは「その最高の地位にある指導者の運営方針が失敗に終われば、100人全部が共倒れになってしまう危険性を秘めているのもアメリカだ。所が「職の流動性」があるから、失敗があっても次の“job”にも恵まれるのもアメリカなのだ。
“I don’t like you.”
その指導者、即ち会社組織における事業本部長は人事権を掌握しているのだから、その人物に嫌われれば実力の問題ではなく、格下げされたり馘首されることがある世界だ。私が好んで引用してきた実話はフォード社のオウナーのヘンリー・フォード氏は、社長だったリー・アイアコッカを辞めさせた後で、アイアコッカの腹心の副社長に電話をして「今、アイアコッカをクビにした。だから君もクビだ」と宣告した例だ。副社長が「何故、私までがクビですか」と尋ねると、“I don’t like you.”と言った。「嫌いだ」と言うことが各種の理由になる国なのだ。現に、私の事業部に副社長の命令を聞かなかった若手がその場で辞めさせられたのを見ている。
ここまででは、未だ未だ「アメリカとは」や「何故私が白人たちを敬い崇め奉る必要はない」と主張するかの説明は不十分だと思うので、何時かまた論じてみようと思っている。
上智大学での経験:
これまでに一度も回顧したことはなかったが、私は当時としては不慣れなマルかバツかの方式の当時の大学進学適性検査に大失敗をして、学年で下から3番目の31点しか取れず、全ての国立大学を受験する資格を失い、一旦は浪人を考えたがサッカー部の2年上だった嘗てのサッカー部のマネージャーだった上級生に「浪人はするな」と諭されて、カトリックのイエズス会が経営する上智大学とは如何なる厳格な大学かも知らずに受験した次第だった。念の為に確認しておくとこの大学は所謂「ミッションスクール」ではない、男子校だったのだ。
その上智大学に進学して学んだことが「一神教の精神で、全てが神のみ旨であり、それに従うことしか認められていない二進法的な思考体系」であり、その規律の厳しさ大方が外国人(主にヨーロッパ人)神父様である教授陣の講義に対する姿勢の想像もしていなかった厳格さだった。そうとは知らずに入ってきた主に地方から一部の学生たちは「気楽なものだ。全てが神様任せで屈託がないだけの世界」と揶揄した。だが、彼等にも私にも「大学が定めた規則を守らねば進級も出来ない」という厳格さを理解するのには長時間を要さなかった。因みに、多くの神父様たちの講義は英語だった。
厳しさの例を挙げておこう。哲学を担当されたドイツ人の神父様は教科書を忘れた学生が隣の席に寄って見ていたのを見咎めて「教科書を忘れるとは私の受業を聞く資格がないから、直ちに退去せよ」と命じられた。学生は「厳しすぎる処置だ」と抗議すると「君は入学時に大学が定めた規則を遵守すると署名捺印していたはずだ。それに違反したのだから退出は当然。嫌なら大学を辞めなさい」と宣告。その学生はその場で「退学します」と去って行った。要するに、カトリックの世界に入れば「定められた規則は守るのは当然。それが神が定めだ」と極めて単純明快だった。
私は何らかの事情で追試となったことがあって、その神父様の研究室に呼ばれた。すると「これが追試の問題だ。君はカンニングをしないと神に誓うが」と尋ねられ「イェス」と答えた。神父様はそのまま次の講義に出て行かれ、90分後に戻られた。私は些か呆気にとられたが、これが一神教に世界の思考体系かと思い知った次第だった。この「何事も神のみ旨」と「規則に従い、神に背かない」事が最重要と知り得たことは、後にアメリカ人(プロテスタントですが)の会社に転じても、慌てずに対応できる基礎となっていた。これは英語が解るか否かの問題ではないと思っている。言ってみれば「宗教心の違い」かと思う。
アメリカ人には100人に1人しかまともな者がいない:
これは、既に採り上げた「上澄みの層に属する者は極めて少ない」という説の延長線上にある議論だと思う。1980年代だったと記憶するが、本社からの帰りの機内で隣の席に座った某大手コンサルテイング会社のアメリカ支社長で、東大の工学部出身と名乗った人物と語り合ったことがあった。その際に私は「アメリカという国にはウンザリだ。白人でも中流以下(“lower-middle”とでも言うのか)から下の階層になると、まともに使える者が1,000人に1人しかいないではないか」と率直な意見を述べた。
先方の意見は「使えない者が非常に多いとの説には賛成する。だが、如何に何でもそれが全体の0.1%は言いすぎだ。私は1%だと見ている」だった。そして暫くこの件を議論した結果で「1%」で決着した。これは、本当に彼等の中に入って彼等との仕事を経験してこないことには、認識できない問題であるとも意見が一致した。この点は、新卒から始まって年功と共に段階的に地位が上がっていく我が国の会社組織では考えられない身分の差なのだ。
彼等は滅多にマネージャーの肩書きすら与えられることがなく管理職とは成れずに、言わば補助的な仕事しか与えられていない事務職の者たちなのだ。彼等は与えられた任務だけ恙無くこなしていれば良いのだし、年俸は増加することはあっても地位が上がっていくことはないので直向きな向上心も乏しく、我が国では考えられないほどノンビリとした存在。そこには、州立大の4年制しか出ていない者が多く、極端に言えば立身出世には諦めの心境にあるようにすら見えるのだ。
前出の1%論の後で、私は不覚にも「アメリカに来てホテルにチェックインしようと思えば、あれほど簡単な手続きの処理に20~30分もかかる。空港でも同様でカウンター内の地上勤務の事務員たちの仕事の能率が低く常に1時間くらい待たせられる。買い物をすれば暗算で釣り銭の計算すら出来ない店員ばかり」と不満を述べてしまった。すると、彼は「それは貴方自己矛盾の論法だ。貴殿はつい先ほどまともな者は100人に1人で合意したばかりではないか。街中で99%に出会うのは当然だ」と揶揄されてしまった。
極論的に言えば「家が裕福でなければ、比較的学費が少額で済む州立大学に進む以外に余り選択肢がない。だが、州立大学の4年制の出身では先ず中小企業か街中の商店等に職を求めて、そこで実力を養うか特別なスキルを身につけて大手企業に採用されるように準備しておくことが重要になるのだ。だが、裕福な家に生まれれば、Ivy Leagueでも何処でも進学できる機会があるし、卒業後に4年間の実務経験を経てビジネススクールに進み、大手企業に就職して出世の道を開くMBAも取得するのがアメリカ」なのだ。
ウエアーハウザーにも州立大出身の事務職はいたが、彼等は滅多に肩書きと地位が上がって行くチャンスには恵まれないのだ。だからこそ、彼等は年俸に見合う分だけ働いてそれなりの生活を維持するしか考えていないと見ていた。やる気等は出しようがないのだ。私が「生涯で最高の上司だった」と賞賛する副社長は、実は州立大学の4年制の出身だったが、その類い希な才能を会社側に見込まれて、別組織である地方の工場の会計係から抜擢され引き上げられてきた珍しい例だった。即ち、MBAでもない副社長だった。こういうことも希にはあるのもアメリカだ。
格差社会:
アメリカの会社には年功序列などなく、何処から来たのかも知れない一流私立大学のMBAを持つ若手が、ある日突然彼等事務職を顎で使うような地位に就き、あれよあれよという間に出世というか高額な年俸を取る地位に上がっていくのだ。そして社長に認められるだけの実績を挙げた者だけが入れる「会社のボーナス・プログラム」にも加えられるのだ。更に成績を評価されれば、年収がは一層増えていき、それに見合うだけの実績を挙げるべく、夜を日に継いで働く以外にその組織内で生き残れる術はないのだ。
私は一度事務職の高齢者に「あんな若造にこき使われて気分が悪くないのか」と尋ねて見たことがあった。答は簡単で「彼奴は好き好んであの地位に就いたのだ。その代わりに朝は6時でも7時でも出勤し、夜は8時でも9時でも仕事が終わるまでは居残り、土・日もなく全アメリカや世界中を飛び回っていないと高額な年俸と地位を守れない。俺はこの年俸に見合うだけの仕事をすることに不満はない」と顔色一つ変えずに答えた。そうは言っても不平・不満と格差に対しては鬱積したものがあるとは推察している。だからこそ、白人があの人種差別反対のデモに参加しているのだとか。
20年以上も彼らの世界にいて良く解ったことは、上記の議論に出てきた1%、即ち、100人に1人の突出して優れた才能と能力の持ち主が、出自と学歴を引っ提げて部員たちのに位して、残る99%の凡庸な者たちを引っ張って行くのがアメリカの組織なのだ。99%はそのたった1人の指導者の方針に口を挟むのは先ず不可能だろう。と言うことは「その最高の地位にある指導者の運営方針が失敗に終われば、100人全部が共倒れになってしまう危険性を秘めているのもアメリカだ。所が「職の流動性」があるから、失敗があっても次の“job”にも恵まれるのもアメリカなのだ。
“I don’t like you.”
その指導者、即ち会社組織における事業本部長は人事権を掌握しているのだから、その人物に嫌われれば実力の問題ではなく、格下げされたり馘首されることがある世界だ。私が好んで引用してきた実話はフォード社のオウナーのヘンリー・フォード氏は、社長だったリー・アイアコッカを辞めさせた後で、アイアコッカの腹心の副社長に電話をして「今、アイアコッカをクビにした。だから君もクビだ」と宣告した例だ。副社長が「何故、私までがクビですか」と尋ねると、“I don’t like you.”と言った。「嫌いだ」と言うことが各種の理由になる国なのだ。現に、私の事業部に副社長の命令を聞かなかった若手がその場で辞めさせられたのを見ている。
ここまででは、未だ未だ「アメリカとは」や「何故私が白人たちを敬い崇め奉る必要はない」と主張するかの説明は不十分だと思うので、何時かまた論じてみようと思っている。
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