無観客であろうと何だろうと開催して良かったと思う:
私は結果としては「仮令無観客であろうと、開催したのは良いことだ」と思って、素直にテレビ観戦している。しかし、私の感性というか評論家的な視点からすれば「勝った、勝った」と喜ぶとか「金メダルが沢山取れて良かった」と感動するのではなく、世界各国でそれぞれの競技の分野で最高水準に選手たちの技量と精神力を、居ながらにして見られることは素晴らしい」となるのだ。但し、某独裁の帝王が率いる國の選手が勝つのを見ても感動などしない。
私が昨26日までのところで最も感動したのは、卓球の混合ダブルスで伊藤・水谷が準々決勝戦の最終ゲームで、0対5のダメかと思わせられた不利の状態から勝ち抜いてくれた、際立った精神力の強さだった。私の持論では、オリンピックのような大会で勝つためには世界最高水準に達している技術力が必要なのは言うまでもないが、そこに強靱な精神力が養われていれば、俗な言い方であるが「鬼に金棒」であると思っている。伊藤・水谷の組み合わせはあの逆境を跳ね返すだけの両方が備わっていたのだろうと、感動させて貰えた。
私はオリンピックという大会では、何もメダルを獲ることに絶対的な意義があるとは思っていない。世界最高水準にある選手たちが一つの競技会場に集まって、それぞれの技量と精神力を発揮してくれるのだから、そもそものオリンピックの精神だったと聞く「参加することに意義がある」だけではなく、その持てる力を全世界に見せる場があることが素晴らしいと思っている。メダルが取れたのどうのということは、単にその結果の一つに過ぎないのだ」と思って鑑賞している。
昨日までのところで素晴らしいと褒めたことがある。それは女子のソフトボールにおけるわが代表の選手たちの、基本に忠実に整然とした野球じゃなかったソフトボールをやっている技術的な水準の高さである。10年前だったかに女子のサッカーがW杯を獲ったときにもその基本に忠実な真面目(というのも変だが)なサッカーの質を賞賛した。このソフトボールの選手たちのプレーの質には文句の付けようがない。
特にあのショートストップの守備の上手さは「本当の野球」をやらせてみたくなったほど素晴らしいのだ。張本勲は「10番と11番をつけた選手のバッテイングはプロ野球の選手たちに学ばせたいほど良い」と褒めていた。私は勝った負けたもさることながら、このような高い技術の水準を見せて貰えることが大いに有り難いオリンピックの特徴だと解釈している。序でになってしまうが、男子のサッカーにおける堂安と久保の示し合わせた先取点のフォーメーションも「素晴らしい」と感動させて貰えた。
とは言うが、矢張りこの大会で努力の甲斐あって優勝した者たちがどれほど嬉しいかは、高校1年のときに全国大会のサッカーで優勝を逃した経験しかない私には想像出来ない喜びも感動もあるだろう。そう察するだけで涙がで来る思いなのだ。羨ましいなどという次元ではないだろう。
私は勿論努力して勝った人から感動を貰うとか、元気を貰える事がないとは言わないが、多くの競技で世界最高水準にある選手たちの試合を見られることが有り難いのだと思っている。例えば、何のことかサッパリ理解できない「スケートボード」の「トリック」でもお陰様でやっと少しはその凄さとやらが解るようになって。
メダルとやらを獲れれば、それはそれで素晴らしいことだし、幾ら賞賛しても賞賛しきれないだろうと思う。だが、力足らずして4番になった者でも、世界で4番になるまでにはどれほどの努力と辛い練習に耐え、精神力を養ってきたことを称えて上げても良いのではないのか。5番だって6番だって立派ではないのか。彼らがそこまで来る長い年月の間に培ってきた力を正当に評価して褒めて上げても良いのではないのか。
マスコミは今日までにオリンピックから帰国した選手団から、メダル獲得者だけを集めて記者会見をするのを、私は不快な思いで見てきた。あれは獲れなかった選手たちに対する不当な扱い方だろうと思って。ひょっとすると、今回は「密」の状態になることを避けるのではないのか。
私は結果としては「仮令無観客であろうと、開催したのは良いことだ」と思って、素直にテレビ観戦している。しかし、私の感性というか評論家的な視点からすれば「勝った、勝った」と喜ぶとか「金メダルが沢山取れて良かった」と感動するのではなく、世界各国でそれぞれの競技の分野で最高水準に選手たちの技量と精神力を、居ながらにして見られることは素晴らしい」となるのだ。但し、某独裁の帝王が率いる國の選手が勝つのを見ても感動などしない。
私が昨26日までのところで最も感動したのは、卓球の混合ダブルスで伊藤・水谷が準々決勝戦の最終ゲームで、0対5のダメかと思わせられた不利の状態から勝ち抜いてくれた、際立った精神力の強さだった。私の持論では、オリンピックのような大会で勝つためには世界最高水準に達している技術力が必要なのは言うまでもないが、そこに強靱な精神力が養われていれば、俗な言い方であるが「鬼に金棒」であると思っている。伊藤・水谷の組み合わせはあの逆境を跳ね返すだけの両方が備わっていたのだろうと、感動させて貰えた。
私はオリンピックという大会では、何もメダルを獲ることに絶対的な意義があるとは思っていない。世界最高水準にある選手たちが一つの競技会場に集まって、それぞれの技量と精神力を発揮してくれるのだから、そもそものオリンピックの精神だったと聞く「参加することに意義がある」だけではなく、その持てる力を全世界に見せる場があることが素晴らしいと思っている。メダルが取れたのどうのということは、単にその結果の一つに過ぎないのだ」と思って鑑賞している。
昨日までのところで素晴らしいと褒めたことがある。それは女子のソフトボールにおけるわが代表の選手たちの、基本に忠実に整然とした野球じゃなかったソフトボールをやっている技術的な水準の高さである。10年前だったかに女子のサッカーがW杯を獲ったときにもその基本に忠実な真面目(というのも変だが)なサッカーの質を賞賛した。このソフトボールの選手たちのプレーの質には文句の付けようがない。
特にあのショートストップの守備の上手さは「本当の野球」をやらせてみたくなったほど素晴らしいのだ。張本勲は「10番と11番をつけた選手のバッテイングはプロ野球の選手たちに学ばせたいほど良い」と褒めていた。私は勝った負けたもさることながら、このような高い技術の水準を見せて貰えることが大いに有り難いオリンピックの特徴だと解釈している。序でになってしまうが、男子のサッカーにおける堂安と久保の示し合わせた先取点のフォーメーションも「素晴らしい」と感動させて貰えた。
とは言うが、矢張りこの大会で努力の甲斐あって優勝した者たちがどれほど嬉しいかは、高校1年のときに全国大会のサッカーで優勝を逃した経験しかない私には想像出来ない喜びも感動もあるだろう。そう察するだけで涙がで来る思いなのだ。羨ましいなどという次元ではないだろう。
私は勿論努力して勝った人から感動を貰うとか、元気を貰える事がないとは言わないが、多くの競技で世界最高水準にある選手たちの試合を見られることが有り難いのだと思っている。例えば、何のことかサッパリ理解できない「スケートボード」の「トリック」でもお陰様でやっと少しはその凄さとやらが解るようになって。
メダルとやらを獲れれば、それはそれで素晴らしいことだし、幾ら賞賛しても賞賛しきれないだろうと思う。だが、力足らずして4番になった者でも、世界で4番になるまでにはどれほどの努力と辛い練習に耐え、精神力を養ってきたことを称えて上げても良いのではないのか。5番だって6番だって立派ではないのか。彼らがそこまで来る長い年月の間に培ってきた力を正当に評価して褒めて上げても良いのではないのか。
マスコミは今日までにオリンピックから帰国した選手団から、メダル獲得者だけを集めて記者会見をするのを、私は不快な思いで見てきた。あれは獲れなかった選手たちに対する不当な扱い方だろうと思って。ひょっとすると、今回は「密」の状態になることを避けるのではないのか。
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