故鳥山明氏の作だったとは全く知らなかった:
実は、19年3月27日に「英語を話せない人が英語を教えて」と題して発表した中に、下記のように「ドラゴンクエスト」を取り上げていたと、5年も経った本3月14日になって偶然に気が付いたのだった。故鳥山明氏には申し訳なかったことで、文中には鳥山氏云々とは触れていなかった。
*ドラクエ:
これはつい最近までゲームのことだとは解っていたが、何を短く詰めたのかが解らなかった。だが、最近偶然に”Dragon Quest“のことらしい察しがついて、カタカナ語を創造する人たちの語彙の大きさと言うべきか、先ず日常的に使うことがない堅苦しい単語をチャンと承知していて、ゲームの名前にまで使ってしまったことには恐怖さえ感じていた。だが、questという単語は動詞でもあるので、ヒーローインタビューと同様に目的語が先に出てきている辺りの文法無視というか、日本語の語順で言葉を並べた感覚の酷さにも敬意は表したいとは思わない。
こういう出鱈目な言葉の並べ方しか出来ない英語教育を永年行ってきていながら、その教育を小学校からも始めようとは笑止千万だ。小学校で英語を誰に教えさせようという気か。まさか、英語が何たるかを知らない連中のように native speakerに敬意を表して連れてこようとでも言うのではないだろうな。以前にも指摘したが、外国人(の範疇にはnative speakerではない連中も屡々入っているようだが)には「日本人が英語を学ぶ時に如何なる点というか問題で苦しんでいるかは解らないのである」と知るべきだ。
この私でさえ(?)初めてアメリカに入った1972年に、コーヒーを貰う時に”How do you take it?“と尋ねられて「何を聞くのかな。コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬返事に窮したものだった。私はこういうことはnative speakerたちには先ず認識して貰えないと思っている。小学校で英語を教えようとする人は余程海外での経験が豊富で、アメリカでもUKでも支配階層の中で過ごした経歴の持ち主にでも再教育させたら如何かと思っている。なお、上記の質問の意味は「砂糖とクリームは要るか」なのである。
これはつい最近までゲームのことだとは解っていたが、何を短く詰めたのかが解らなかった。だが、最近偶然に”Dragon Quest“のことらしい察しがついて、カタカナ語を創造する人たちの語彙の大きさと言うべきか、先ず日常的に使うことがない堅苦しい単語をチャンと承知していて、ゲームの名前にまで使ってしまったことには恐怖さえ感じていた。だが、questという単語は動詞でもあるので、ヒーローインタビューと同様に目的語が先に出てきている辺りの文法無視というか、日本語の語順で言葉を並べた感覚の酷さにも敬意は表したいとは思わない。
こういう出鱈目な言葉の並べ方しか出来ない英語教育を永年行ってきていながら、その教育を小学校からも始めようとは笑止千万だ。小学校で英語を誰に教えさせようという気か。まさか、英語が何たるかを知らない連中のように native speakerに敬意を表して連れてこようとでも言うのではないだろうな。以前にも指摘したが、外国人(の範疇にはnative speakerではない連中も屡々入っているようだが)には「日本人が英語を学ぶ時に如何なる点というか問題で苦しんでいるかは解らないのである」と知るべきだ。
この私でさえ(?)初めてアメリカに入った1972年に、コーヒーを貰う時に”How do you take it?“と尋ねられて「何を聞くのかな。コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬返事に窮したものだった。私はこういうことはnative speakerたちには先ず認識して貰えないと思っている。小学校で英語を教えようとする人は余程海外での経験が豊富で、アメリカでもUKでも支配階層の中で過ごした経歴の持ち主にでも再教育させたら如何かと思っている。なお、上記の質問の意味は「砂糖とクリームは要るか」なのである。
このように、カタカナ語排斥論なのだが、英語を話せないようにしかならない教育を受けていても、questという単語を覚えていて使ってしまう辺りに、我が国の英語教育の優れた点と問題点を見出しているのだ。私はquestという単語があることを知ってはいたが、アメリカ人たちの中にいて使ったことも、彼等が日常的に使うのを聞いた記憶はない。文語なのだろう。知っていたのは“in quest of ~”で「~を追い求めて」という熟語だった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます