新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月2日 その2 英語の質を考える

2016-08-02 13:02:21 | コラム
英語にも品格があるのを忘れるな:

私は屡々「英語の品格」ということを言っている。それは何かと言う前に「日本語にだって上品な言葉遣いや下品な話し方という区別があるではないか」と指摘しておきたい。そこには育ちもあれば氏素性も影響するだろうし、教育次第でもあるかと思う。日本語の場合は年齢や教育によってそういう区別の仕方は自ずと出来るようになってくるものだ。英語では「文法無視」や「単数複数の区別がない」ような英語は無教養だと軽蔑される危険性があると知っておくべきだ。

だが、こと英語ともなれば、余程その道を深く究めるか、そういう環境にある程度以上の期間身を置かない限り、何が綺麗で正確で教養と品格のある言わば支配階層の英語かなどということは、容易に見えてこないものだと思う。ましてや、我が国の英語教育では文法上の品詞は教えても、「口語」、「文語」、「慣用句」(=idiomatic expression)、「俗語」(=slang)、「汚い言葉」(=swearword)とうの区別は教えられていないようだし、発音上の「連結音」(=liaison)や”r-linking”が教えられていないのは問題だと思う。これらは「品格に有無」の問題になるのだ。

私が1972年8月に生まれて初めてアメリカに行ってニューヨークに入った時のことだった。道路工事をしていた白人の労務者がチャンと英語を話しているのを聞いて「凄い。アメリカでは人夫だって英語を話している」と、ただひたすら感動したものだった。

小学校の児童や子供に英語を仕込んで、それでなくともおかしな日本語しか話せず、おかしなカタカナ語を縦横に駆使するような者が増えた時代にあって、日本語を一層おかしくしそうな英語教育をして何の為になるのだろうか。カタカナ語のほとんどか文法無視である事を考えても、我が国の英語教育の素晴らしさが解ろうというものだ。

私が我が国の英語教育の中で素晴らしいと思う点は「非常に読解力が高くなるような教え方がされていること」なのだ。ある大学で英書購読などという難しい教科の原書を見せられて、私には到底理解出来ない内容を多くの学生さんたちが解釈出来るのには驚くと同時に「俺はえらそうなことを言える立場にないのかも」と恥じ入ったものだった。

また、在職中に是が非でもアメリカの家庭にホームステイしたいと言う重要取引先の課長さんのお嬢さんを工場の管理職・L氏がお引き受けし、彼を案内して自宅を訪問した時に、高校3年の英語の教科書を見せて貰ったことがあった。一読したL氏が叫んだのは「日本では高校生の時点から文学者を養成する気か。アメリカの高校ではこんな難しい文学的な英語は教えない。これは如何なる目的の教育か」だった。換言すれば、余りにも程度か高く、アメリカの高校生程度の英語力では消化出来ないのではという意味だ。それを日本の高校で教科書に使っているので驚愕したという意味だ。

現実にアメリカで話され且つ書かれている英語は千差万別だが、そのどれが品格があり支配階層の人たちと話す際に使っても恥ずかしくないのかは、余程長い間アメリカ人の中で、それも一定上の階層にある者たちである必要があるが、日常的に英語で生活してみて、さらに何が良い英語でどれが品位を欠くかを指導してくれる人がいて、初めて見えてくるものだと思う。

私は子供頃からの経験で、仲間同士で話し合う英語には不自由していなかった。だが、39歳でビジネスの世界に入り、そこで通用する英語は別物だと親切に指導してくれた日系人のMBAに出会って、初めて目が覚めたものだった。えらそうな言い方をすれば、基礎が出来ていたので、その上に「支配階層の英語」を乗せることが出来たのが幸運だっただけ。だが、我が同胞の普通にビジネス社会で暮らす方が「支配階層の英語」を身につける必要がどれほどあるだろうか。

要するに、何を目指して、何の為に英語を使うのかを十分に意識乃至は認識せずして、ある程度以上に上級の英語を学ぶ意義が何処にあるのかという疑問である。更に言えば、「何が支配階層の英語かを認識出来ているのか」という問題もあるし、我が国にそういう英語を教えることが出来る人がそれほどいるのかという疑問もある。そんな難しいことを考えずに「やったー。通じた」という程度を目指すのかを、最初から決めてから取りかかるべきではないのか。

結論を言えば「何を目指して、どのような英語を、何歳から『小・中・高・大学の何処から教え始めるのか』をキチンと決めずして、小学校から教えて何になるのかな」という単純素朴な疑問だ。勿論、軽佻浮薄な文法無視で汚い言葉などを散りばめた教養の程度を疑われる「ペラペラ」などを目指してはならないのだ。品格を忘れて「通じるか、通じないか」を基準にしてはならないのだ。一般的に「お里が知れる」と言うではないか。


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