新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

小学校における英語教育

2016-08-02 08:28:48 | コラム
英語教育を強化すると中教審が:

またまた言い出したかと思って新聞の記事を読んだ。自らの英語に対する劣等感を他人に押しつけている気がしてならない。子供の頃から英語を教えるという発想は必ずしも悪いとは言わない。問題は「誰が、どのような方法で、どうやって教えるか」である。それは「教えられる人材の要請」でもある。何でも小学校の中・高学年での英語の時間を140時間増やして合計で5,785時間にするとかだ。私には良く解らない教育方針だ。

小学校の英語教育の現場に接している訳ではないが、聞くところでは「助教」とやらいう名の外国人を置いている学校もあるようだ。このような”native speaker”を有り難がることを私は何度も批判してきた。それは外国人であるからと言って、必ずしも正しく正確で品格が高い英語を話し、且つ教える能力があるとは決まっていないからだ。私は遺憾ながら外国人にそのような日本語を教える能力も資格もない。それと同じで、何処の馬の骨かも解らない外国人の採用は疑問である。

もっと正確に言えば、アメリカ人ならばアメリカのどの地域の出身か、UKの人ならばCockneyで話すか否か、オーストラリアやニュージーランドの出身であれば正調なQueen’s Englishを話す能力を備えているか等々を確かめるべきだが、採用する学校側にその識別能力を備えていなければ、妙なことになってしまうのは必定だ。極論だが、まともな外国人ならば自国で職を求めるはずで、我が国までで稼ぎに来る者が果たして優秀かどうかは非常に疑問ではないのか。

そんなことよりも、私が問題だと思うことは「これまでの我が国の科学として英語(正調なEnglishではないという意味)で育ってきて、外国人離れした発音しか出来ない先生方が、これまでよりも長い時間を従来通りの方針で教えるのであれば、改革にも強化にもならない」のではないのか。これまでに何度も批判してきたことだが、試験に「単語のアクセント来る位置に印を付けろ」のような問題が出るので、それに対抗すべき教え方を続けて「グローバル化の時代」に即応した英語になるのだろうかという単純素朴な疑問を呈したい。

次に言いたいことは、これも何度も採り上げてきたことで近頃外国人(欧米人と範囲を狭めて良いだろう)に短期間学んだだけで実に見事に日本語を操る人たちが増えてきたことがある。その短期間が精々2年程度大学の教養課程で学んだだけなどというアメリカ人の大学生がいたという実例も紹介した。中教審か文科省か知らないが、その大学に行って「外国語教育」の実態を研究してきたらどうだろう。これは「何も小学校から始めなくとも、18歳からで十分間に合う」という意味だ。

また、カリフォルニア州で出会ったアメリカ滞在1年にも満たない韓国人の青年女子が「自国で1~2年程度勉強しただけ(と称したが)」で、YM氏とこの私が「貴女はアメリカ生まれか」と異口同音に尋ねてしまった程綺麗な発音で正確な英語を話していた。我が国の英語教育の至らなさを見せつけられたようで極めて残念だった。だが、韓国に行って英語教育の実態を調査しましょうなどとは言いたくない。

因みに、韓国の女性プロゴルファーたちは我が国だけではなくアメリカに行っても稼ぎまくっているが、彼女らはその環境に順応したのか、かなり英語能力が高い。これは外国人の相撲取りたちが日本語が上手くなっているのと同じ理屈か。要するに「必要に迫られない限り、外国語は簡単には上達しない」という良い例でもある。即ち、必要に迫られていない小学生に教えてどれほどの効果が上がるのかということ。

私の英語学習法はこれまでに何度述べたか解らないが、「100回かそれ以上の音読、暗記、暗唱、単語帳を作らない、言葉は文章の流れの中で覚える、教科書に書き込みをしない、解らない言葉でに出会えばそこで直ぐ(電子?)辞書を引く何回も引く、音読はその文章が何処で切れて、何を意味するかが解るようになるまで続ける」なのだ。

これは私一人に適した方法ではなかったことは、大学の同期に全く同じ方法でnative speaker並の英語力を備えた私如きが遠く及ばない凄い者がいたこと、家庭教師をやって中学生を育て上げた経験、某商社で個人指導をして実績があった経験とうで立証したと確信している。

究極的に言いたいことは「英語を万人に強制するのは必ずしも最善の教育ではない」という点だ。確かに英語を母国語とする連中と対等に渡り合える英語力を養うのは結構なことだ。だが、そのような局面に出会う人がどれほどいるのかという疑問は拭えない。私は偶然の機会もあって子供の頃から話す事を教えられた幸運に恵まれたし、思いもかけずにアメリカの会社に転じてしまった。因みに、戦時中だったこともあり、私は中学に13歳で入るまで英語など見たことも聞いたこともなかった。それでも立派に間に合ったのだ。そういう場合以外に英語力がどれほど役に立つのか。

確かに諸外国との交渉に通訳を伴って出て行く政治家は如何なものかとは思う。だが、生半可な英語力で交渉の席に着く方がもっと危ないと思う。少なくとも通訳がどれほど正確に訳しているかを確かめられる程度の能力は必要だろうが。だが、そういう立場に上がっていける人がどれほどいるのかも考えておく必要があると思う。

私は結論として「習うよりは馴れよ」と「慣れと度胸だ」が外国語の上達の根底にあるとは思う。だが、それ以前に「最初に正しく正確に基礎を教え込むこと」があると思っている。そういう教え方が出来る人材が何処にどれほどいるのかが、我が国の外国語教育の最大の問題点だと認識している。



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