過去の一つの謎を解明しようとする試みが、新たな謎を生み出す事は決して稀ではない。これから皆さんにお話ししようとする事もまた同じようなことだ。
日本の潜水艦と広島への原爆投下の話だ。
1995年、アメリカの探検家ポール・ティドヴェル氏は、ユニークな有用鉱物探査用レーダーを搭載したロシアの学術調査船ユジモルゲオロギヤ号をチャーターし、その助けを借り、大西洋の海底に沈んだ日本の伊号第52潜水艦を見つけ出そうとした。この潜水艦は1944年に、不可思議な状況下で行方が分からなくなっていたものだ。
ところがティドヴェル氏が関心を持ったのは、この潜水艦自体ではなく、その積荷だった。
数々のアーカイブで資料を掘り起こす中で、ティドヴェル氏は輸送用に特別に製造された、この潜水艦が1999年(?)の夏の初め、日本を出港した事実を突き止めた。潜水艦は2トンの金と、民間の技術者グループを乗せドイツに向かっていたというのだ。
航海の途中、潜水艦はシンガポールで、さらに錫、モリブデン、タングステン228トン、さらに生ゴム60トンを積み込んだ。そして潜水艦はガーボベルデ諸島海域で浮かび上がり、ドイツの潜水艦V350が見つけられるよう、自分達の居場所を暗号で打電した。ドイツ側は日本側が運んできた金などを受け取る手筈となっていた。実はアメリカとイギリスはすでに大分以前から、日本の暗号を解読していたのだが、日本人達はそれを知らず、すべては極秘裏に首尾よく安全に行われていると考えていた。
情報を掴んだ米英は日独の潜水艦が出会う場所に、この海域に配属されていた空母ボーグからの爆撃機を派遣した。敵の出現は、日独双方にとって全く思いもかけないものだったが、両潜水艦はどうにか海中に沈み逃げる事ができた。
そのためアメリカ海軍のパイロット、ジェリー・タイラー中尉は、水中に投下したソーナー付のブイを頼りに爆弾を投下する事となった。専門家たちはテイラー中尉には、日独の潜水艦のうちどちらか1隻だけでも沈没させ得るような、如何なるチャンスも残されていなかったと見ている。
というのは爆撃が成功したかどうかは、海上の潜水艦の残骸が浮き上がったかどうかで判断するわけだが、テイラー中尉が最後の飛行をした時には、現場はすでに漆黒の闇に包まれていたからだ。
翌日、中尉は潜水艦の残骸を探しに向かったが、何も発見することはできなかった。当時、この件に関してはこれ以上注意が向けられる事はなかった。ところが後になって伊-52が戻らなかった事が明らかになったため、テイラー中尉による爆撃で潜水艦は沈没したと見なされるに至った。
日独の潜水艦が極秘裏に出会うはずの場所に突然米軍の爆撃機が出現したため、研究者達は伊-52からV350への貨物の引き渡しは行われなかったと考えるようになったようだ。そうなると、2トンの金は日本の潜水艦の中に眠っている事になる。まさにそうした理由で、ポール・ティドヴェル氏はロシア船をチャーターしたわけだ。ところが彼は結局、何も発見できなかった。
でもティドヴェル氏は捜索活動を縮小しなかったばかりか、今度はアメリカの戦利品アーカイブで見つけた、ドイツの V350の艦長の報告書を基に、別の海域で伊-52を探し始める。
報告書の中では、日本の潜水艦は別の場所で沈没したと書かれていた。そしてまもなくティドヴェル氏は、ロシアの学術調査船のレーダー画面に、シガー状の形をした潜水艦の残骸を海底で発見することとなった。水中カメラにより船上に送られてきた映像には、爆発によって穴の開いた潜水艦の胴体や何かの一部、日本海軍のマークなどがはっきりと映っている。
この潜水艦が日本の伊-52である事はもはや疑いようもなかった。ティドヴェル氏とチームのメンバーの喜びは計り知れなかった。
ところがチームのメンバーだったロシア人達の証言によれば、その時、海底からは如何なる荷物も、まして金など引き上げられる事はなかったというのだ。
というのは調査に使っていたロシア船には、そのための設備がなかったからだ。ティドヴェル氏は帰港を命じ「来年、必要な準備を整えて、またここに来よう」と言ったそうだ。
※1999年の夏の初めに出港???
※第2次世界大戦の謎 日本の伊号第52潜水艦は濃縮ウランをドイツに運んだか(2)へ続く
2月2日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル
日本の潜水艦と広島への原爆投下の話だ。
1995年、アメリカの探検家ポール・ティドヴェル氏は、ユニークな有用鉱物探査用レーダーを搭載したロシアの学術調査船ユジモルゲオロギヤ号をチャーターし、その助けを借り、大西洋の海底に沈んだ日本の伊号第52潜水艦を見つけ出そうとした。この潜水艦は1944年に、不可思議な状況下で行方が分からなくなっていたものだ。
ところがティドヴェル氏が関心を持ったのは、この潜水艦自体ではなく、その積荷だった。
数々のアーカイブで資料を掘り起こす中で、ティドヴェル氏は輸送用に特別に製造された、この潜水艦が1999年(?)の夏の初め、日本を出港した事実を突き止めた。潜水艦は2トンの金と、民間の技術者グループを乗せドイツに向かっていたというのだ。
航海の途中、潜水艦はシンガポールで、さらに錫、モリブデン、タングステン228トン、さらに生ゴム60トンを積み込んだ。そして潜水艦はガーボベルデ諸島海域で浮かび上がり、ドイツの潜水艦V350が見つけられるよう、自分達の居場所を暗号で打電した。ドイツ側は日本側が運んできた金などを受け取る手筈となっていた。実はアメリカとイギリスはすでに大分以前から、日本の暗号を解読していたのだが、日本人達はそれを知らず、すべては極秘裏に首尾よく安全に行われていると考えていた。
情報を掴んだ米英は日独の潜水艦が出会う場所に、この海域に配属されていた空母ボーグからの爆撃機を派遣した。敵の出現は、日独双方にとって全く思いもかけないものだったが、両潜水艦はどうにか海中に沈み逃げる事ができた。
そのためアメリカ海軍のパイロット、ジェリー・タイラー中尉は、水中に投下したソーナー付のブイを頼りに爆弾を投下する事となった。専門家たちはテイラー中尉には、日独の潜水艦のうちどちらか1隻だけでも沈没させ得るような、如何なるチャンスも残されていなかったと見ている。
というのは爆撃が成功したかどうかは、海上の潜水艦の残骸が浮き上がったかどうかで判断するわけだが、テイラー中尉が最後の飛行をした時には、現場はすでに漆黒の闇に包まれていたからだ。
翌日、中尉は潜水艦の残骸を探しに向かったが、何も発見することはできなかった。当時、この件に関してはこれ以上注意が向けられる事はなかった。ところが後になって伊-52が戻らなかった事が明らかになったため、テイラー中尉による爆撃で潜水艦は沈没したと見なされるに至った。
日独の潜水艦が極秘裏に出会うはずの場所に突然米軍の爆撃機が出現したため、研究者達は伊-52からV350への貨物の引き渡しは行われなかったと考えるようになったようだ。そうなると、2トンの金は日本の潜水艦の中に眠っている事になる。まさにそうした理由で、ポール・ティドヴェル氏はロシア船をチャーターしたわけだ。ところが彼は結局、何も発見できなかった。
でもティドヴェル氏は捜索活動を縮小しなかったばかりか、今度はアメリカの戦利品アーカイブで見つけた、ドイツの V350の艦長の報告書を基に、別の海域で伊-52を探し始める。
報告書の中では、日本の潜水艦は別の場所で沈没したと書かれていた。そしてまもなくティドヴェル氏は、ロシアの学術調査船のレーダー画面に、シガー状の形をした潜水艦の残骸を海底で発見することとなった。水中カメラにより船上に送られてきた映像には、爆発によって穴の開いた潜水艦の胴体や何かの一部、日本海軍のマークなどがはっきりと映っている。
この潜水艦が日本の伊-52である事はもはや疑いようもなかった。ティドヴェル氏とチームのメンバーの喜びは計り知れなかった。
ところがチームのメンバーだったロシア人達の証言によれば、その時、海底からは如何なる荷物も、まして金など引き上げられる事はなかったというのだ。
というのは調査に使っていたロシア船には、そのための設備がなかったからだ。ティドヴェル氏は帰港を命じ「来年、必要な準備を整えて、またここに来よう」と言ったそうだ。
※1999年の夏の初めに出港???
※第2次世界大戦の謎 日本の伊号第52潜水艦は濃縮ウランをドイツに運んだか(2)へ続く
ナチ原爆破壊工作 | |
クリエーター情報なし | |
朝日新聞社 |
2月2日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル