存在と無 上巻人文書院このアイテムの詳細を見る |
今回は予てから取り上げてきていた『存在と無』(上)の緒論から第一部「無の問題」についてまとめて見たいと思う。
緒論においては、存在の探求ということが行われている。
サルトルは、
現れこそが本質で、本質それ自身が現れである。(16項)というようにいう。
また、本質は、「ここの顕現の無限の一連鎖によってあらわされるべきだ」(17項)という。
これは、1部1章で述べられている「存在は本質を前提とする」(67項)言い換えればあの著名な「実存は本質に先立つ」という言葉にもつながることである。
つまり、たとえばいす、机などの本質はそれを道具としてどのように使うかということによって規定されるが、人間の本質というのは「世界-内-存在」的に存在としてサルトルのいう対他存在として規定される。
「対他存在」という言葉はおそらくここでは初めて出て来ると思われるので規定しておこう。
以前取り上げた『サルトル1905-80』の語句解説によると、
:人間が「他者に対して存在する」という側面。人間は他者に「関係され」他者の対象となるものとして存在する。それはまた、他者に「見られる」身体として存在するということである。(280-281項〉
われわれが世界もしくは、他者と関係する時もちろんわれわれは「他者ではなく」「世界ではない」という形で存在する。
これを『存在と無』〈上〉の語句解説における「無」と照らし合わせてみよう。
:対自の根源的な否定のはたらきが、存在のただなかに、いたるところにまきちらす「ない」。〈中略〉無は人間によって世界にもたらされる。無は存在するのではなくて、存在される。〈中略〉人間存在は、自己自身の無であるべき限りにおいて、自由である。人間存在は、自己を時間化することによって無である。また、なにものかについての意識として、と同時に、自己自身〈についての〉意識としてあらわれることによって無である。更に、超越であることによって無である。人間存在は、いまだ存在しない無としての目的によって、自己が何であるかを自己に告げ知らせる。〈594項〉
という風に規定されているのが「無」である。
この言葉の規定の部分は恐ろしい。
巻末についているというだけあって、サルトルの思想を要約しているともいえるかもしれないからである。そのことについては、後に譲るとして、この無についての規定を確認した後でこれまで取り上げてきた対自存在、即自存在などの問題に立ち返って見るとたいへん興味深い。
対自存在に関連すること、もしくは、上の規定の中でいえば時間化ということについて面白い例が挙がっている。
不安の例と、自己欺瞞の例である。
まずは、不安の例について、
サルトルは不安について、「私は未来に期待を持ち、〈この部分はいまだ存在しない無に対して自己を自己がどうでありたいかということを規定しているといえる-宗田〉私は《この時、この日、この月の向こう側で私自身と会うことを約束している》のである。不安とは、この約束の場所で私自身に会えないかもしれないというおそれであり、私がもうそこへ行こうとしないかもしれないというおそれである。」という風に述べている。
つまり時間についての哲学をさかのぼるまでもなく、時間というものは存在しない
。存在するのは今というこの瞬間だけである。厳密にいえば、この瞬間ですら、流れ落ちていく滝のように消えていく。
そんな状態にわれわれは身をおき、将来に対して想いをめぐらす。ないことについて想いをめぐらし、ない仮定をすることにより、もしかするとそれがないかもしれないという結論を導き出し、不安になるということだ。〈こちらの不安についての例は、対自存在についての参照となるであろう。〉
もう一つが、自己欺瞞について、
このことについてサルトルは、「自己欺瞞においては、私はほかならぬ私自身に対しての真実をおおい隠すのである」〈120項〉というようにいう。
これは、「あるものであり、あらぬものであらぬ」という即自存在の性格の参照となるであろう。
つまり、自分はこうこうこうで在りたいという理想を思い描き、それと現実がずれていることをおおい隠そうとする。
そのことにより自己欺瞞が発するということだ。
一部「無の問題」ということに関することはこのあたりでしめることにする。
ただ、二部で述べられていることは、「対自存在」についてであるので、いささか内容が重なると思われるので適宜判断して取り上げていくこととしたい。